11

 夜までに仕事を終えると言うのは無理だったようだ。
 暗い部屋の中、窓からの僅かな光で確認した時計は、後数分で今日と言うこの日を昨日と言うものへと呼び名を変えようとする時刻を指していた。短針と長針が重なり合うまでに家主が戻る可能性は極めて低い。
(…当たり前だ…)
 元々忙しくしているあの男が、突然仕事を切り上げるのは難しいことだろう。まして、日頃真面目な者ならともかく、最近は俺へのちょっかいのためそういったことが多いせいで、きっと監視も厳しくなっているのだろう。
 そう思いながら彼の周りにいる男達の姿を思い浮かべる。だが、そう納得している反面、やってこない荻原への喪失感に似た感情にも気付いている。
 何かを求めているわけではない。ただ、何故か早く近くにきて欲しいと焦っている自分がいる。どうしてだろうか、理由はわからない。俺は彼自身を求めているというのだろうか?
(…そうじゃない)
 そうだった方がわかりやすかったかもしれないな、と馬鹿な思いに苦笑する。
 求めているのであれば彼を得れば気が済むかもしれない。だが、俺が望んでいるのはきっと、この自分でもわからない感情に答えが欲しい、ただそれだけなのだ。彼ならその答えを見つける何かをくれるかもしれない。両親に死を与えるきっかけを作った彼になら…。…どこかで俺はそう願っているのだ。だが、そんなことは絶対にないとも思っている。答えなんて何処にも無いのだと。
 俺はコップに入った液体をグイッと飲み干した。
 夕方やって来てからずっとソファに座り窓の外を見ていた。段々と暗くなっていく景色が何故か新鮮で、それでいて窓枠がテレビ画面のような錯覚を受け現実ではないかのようにも思えた。日が沈み、部屋の中に闇が落ちてくるのをじっと感じていた。今では真っ暗闇になってしまったこの広い部屋。立つのが面倒でどこの明かりもつけていない。だが、それでも真の闇ではない。暗くとも慣れてしまった俺の目には、部屋の様子は朧気だがわかり、光の必要性を感じないくらいだ。
 夜になれば暗くなる。それが当然のことだというのに、そのことにどれだけの人間が気付いているのだろう。暗くなれば明かりをつける。それが生きる上でなんとも滑稽なことだと思わないのだろうか。偽りの光に何が照らせるというのだろう。
 少なくとも、俺の心にその光は届かない。
 銘柄などは興味がないので知識もなく、無断でのことに躊躇いながらも開けたワインをゆっくりと飲みながら、俺はこの部屋の空間に沈み込む。このままこの暗闇に解け込められればいい。そうすれば、もう自分を見なくていいのだろうか…。
 全くなんて考えをしているのだろうか。そう思いながらも思いつくのはそんな投げやりな考えだけだ。止まらない。
 確かにここに俺はいる。だが、だからと言ってそれがどうしたというのか。存在したとしても、価値がなければ意味はない。俺の中の小さな光ではもう、この闇の中では輝きを残さない。
 彼が来るまで俺はこうして待ち続けるだけなのだ。もし今夜来なくとも、日が昇り新しい一日が始まろうとも、俺はここでこうしているのだろう。それだけが、俺のすることだ。他にはもう、何もない。それ以上の事は、今はもうどうでもよかった。


 眠っていたわけではないが、意識はどこかにいってしまっていたようだ。  カチャリと俺の後ろでリビングの扉が開いた音で、ようやく俺以外の人の存在を確認する。
「…マサキ?」
 静かなその声の主は「いないのか?」と呟きながら部屋の電気のスイッチを押した。
 小さな瞬く音が響き、部屋の中に眩し過ぎるほどの光が満ちる。
「なんだ、いるなら電気ぐらいつけろよ」
「…あぁ」
「何飲んでいるんだ?」
「さあ…」
 ソファに腰を下ろしながら、荻原はテーブルの上に置いてあったワインボトルに手を伸ばした。ラベルを眺めた後、俺に視線を移し小さく笑う。その顔には少し疲れの色が浮かんでいた。
「悪かったな、遅くなって」
「…いや。忙しいんだろう」
「そんなことはないさ」
 まだ夜のうちに帰って来られたんだからな。そう言って軽く口の端を上げる。
「それより、お前。ジュースじゃないんだから、マグカップなんかで飲むなよ」
 苦笑しながらも荻原は空だったカップにワインを注いだ。それを口に運びながら、俺は無断でそれを飲んでしまったことを詫びた。
「気にするな。飲まれて悪いものなんて置いていないからな、好きにすればいい。
 それに、これはどうせ飲まないからな。飲んでくれて助かったよ」
「何故、飲まないんだ?」
「あまり好きじゃないんだよ。以前知り合いに俺が生まれた年のものだと言って貰ったから、飲まないが何となく置いていただけだ。
 どうだ、美味いか?」
「…さあ。飲めないことはない」
 その答えに笑いながら荻原は立ち上がりキッチンに向かった。直ぐに別のワインと小ぶりの透明のワイングラスを二つ持って戻ってくる。
「こっちも飲んでみろよ」
 片方のグラスに半分弱ほど琥珀色の液体を入れ、それを俺に差し出してきた。手を戻ししな、グラスの変わりに俺が飲んでいたオフホワイトのマグカップを持ち去る。
 紅い液を一口含んだ荻原は、「…いまいちだな」と直ぐにカップを置いた。俺に渡したものと同じぐらいグラスにワインを注ぎ口をつける。
「うん、やっぱこっちの方がいいな。疲れた時は甘口だよな」
 …ワインもそういうものなのか疑問だが、蜜のような液体を実に美味そうに荻原は飲んだ。
 同じように俺もそのワインを口に運ぶ。先程まで飲んでいたようなきついといった感じはなく、変わりにふんわりと軽い甘さが口に広がった。少々甘さが強い気がしないこともないが、荻原の言う通り、甘いものが苦手な俺でも美味いと思えるものだった。
「美味いだろう」
「…そうだな」
「俺は飲むならやっぱこっちの方がいいね。何もつままず純粋に飲むのなら、甘い方がいいんだ、覚えとけよ」
「…覚えても、自分でワインなんか飲まない」
「ま、学生のうちはそうだろうな。だが、これは三千円ほどのものだから貧乏学生でも飲めなくはないだろう。それにいくつか覚えとけば格好もつくぞ」
 ニヤリと荻原は笑い、新たにワインを注ぎ足す。
「これはソーテルヌ。甘口って言ったら結構有名だな。この手の地方名のワインなら比較的安い。
 フランスのボルドーはかなり有名だから聞いたことぐらいあるだろう。こっちはそこのシャトー・ペトリュスだ」
 ワインのラベルを俺に見えるように置き変えながら、荻原はそう説明をした。だが、生憎その名を耳にした記憶はない。名前を言われても全く知らないので予想もできない。ボルドー地方とはフランスのどのあたりなのかと思い浮かべながら、いくらぐらいなのかと値段を訊いてみる。
「貰ったのは去年か、一昨年だったか…。その頃は10万ほどだったな、確か。今はどのくらいだろう、当たり年のものだからまだ値段は上がっているんじゃないかな」
「……そんな金を出してまで、飲みたくはないな」
 荻原はかまわないと言っていたが、無断で空けたものの値段があまりにも高額で、俺は思わず溜息をつく。
「同感だな」
 俺の答えにクククと喉を鳴らして荻原は笑った。本来なら高価なものを勝手に飲まれたのだから、文句の一つでもいうべきところだと言うのに…。他愛のないことなのだろうが、俺は価値観が違い過ぎるのを再確認してしまう。
 だが、グラスに残ったワインを口に運ぶと、少し強い甘さが俺の体に染み込んでいく。それは荻原ではないが、彼の言うように疲れが取れるような気がした。いや、疲れと言うか何と言うか…。その甘さが心を癒してくれるような、そんな感じがした。


「…何があったんだよ」
 開けたワインが空になる頃、荻原は会話の延長のようにあっさりとそう訊いてきた。
「忘れた…」
「何だよ、それ」
 呆れるというよりも、少し残念そうに軽く笑う。
「遅くなったから、拗ねているのか?」
「…拗ねるかよ」
 それはそれで寂しいな。そう言った荻原は、手で顔を覆い目頭を押さえた。欠伸をかみ殺すように口元を動かす。
「…仕事、楽しいか?」
「ん? そうだな、続けているんだから楽しいんだろうな。マジに考えたことはないけどな。俺の場合は悩む前に勝手に足が動いているから、考えても仕方がないね」
 少し自嘲気味と取れるように笑いながら荻原はそう言い、グラスに入っていたワインを飲み干した。「まだ、飲むか?」、その問いに首を横に振ると、自分もやめておこうとグラスを置いた。
「…忙しいんだろう、…疲れないのか」
「…そうだな。休みが欲しいとか、しんどいなとか思わないこともないけど。もう、この忙しさが当たり前になっているから、辞めようとか仕事を減らそうとか思わないな。
 だから、楽しいとかって言うよりも、これが俺の生きる道、ってやつなんだろうな」
「…生きる道、ね…」
「馬鹿みたいか?
 だが、結局人間なんて生まれた時にはある程度の人生が決まっているもんだろう。運命とかって大層なものじゃなくとも、周りの環境とかで縛られたりするのは当たり前のことで、選べる道はこの中のどれかだと決まっている。それは仕方の無いことだ。
 ま、その中でどう歩いていくかは自身の問題だがな。
 俺は幸いにも、好き勝手とまでは行かないまでも動き回れる能力と周りの協力がある。なら、その中で苦労するよりも、楽しくやる方が得だろう? だからこうして生きている」
 荻原の言う事は尤もなことで、理解は出来た。そう、人にはそれぞれ決められた道がある。だが……。
「…それは…、あんただから、言える言葉だな」
 この男の場合は、そう言えるほどの選択肢があったのだ。楽しい道を選べる立場にいたのだ。だが、この世の中は平等ではない。苦労する道しか選べない者もいるのだ。それに…。
「成功していなければ、単なる理想に過ぎないだろう…。恵まれた環境にいたからこそ、そんなことが言えるんだよ」
「そうかもな。確かに世間から見れば俺は恵まれた奴なんだろうな。この年で自分の会社を持っていて、不景気の中でちゃんと生き残っている。周りの者からも慕われるいい奴で、ついでに顔もいい。正に、女は放っておかない男だよな」
 苦笑しながら荻原は言葉を続ける。だが、どこかがおかしい、俺はそう感じた。いつもは本当に笑っているようだが、今は、…別の何かに気がいっている、そんな感じだ…。
 だが、気にしすぎなのかもという思いの方が強い。手持ち無沙汰のように組んだ指を動かす姿は、一見苛立っているようにも見えるし、単なる癖のようにも思える。曖昧な違和感…。
「子供の頃は、友達は沢山いてクラスの人気者。何不自由なく育って、人を使う立場に立つ。そんな俺の姿は、凄いというより嫌味な奴だってな。お前にはそう見えるんだろう?」
 少し首を傾げ、口角を上げる。いつもの荻原の姿。だが、それは全くの別物…。
 茶化しているのではなく、何と言えばいいのか、本気で俺に対しているような…、敵意に似た強い感情が俺を射抜く。
「だが、俺は確かに恵まれていたし楽しくやってきたが、全ては周りの環境のおかげって訳じゃない。俺だって今まで楽してここまで来たわけじゃないんだからな、俺の努力も認めろよ」
 言葉の色はいつものように軽さを装ってはいるが、その後ろにある強さを隠さない。
 荻原の急な態度の変化に俺は戸惑い、驚きと不審で何も反応が出来なかった。
 表面的には普段通りと言えるだろう、薄い笑みを載せからかう様に話す声。だが、この部屋の中には重い空気が落ちている。俺の思い過ごしではない。俺にわからせるように、感情を見せている…。何故なのかわからないが、気分のいいものではない…。
「同じとはいかないが、人は皆それぞれの場所で悩んだり苦しんだりしてるんだろう。例外なんて誰もいないさ。
 だから、そう人を妬むなよ」
「…妬んでなんかいない」
 一体、何を言いたいのか…。普段から何を考えているのかわからない男だが、それ以上に様子が違う荻原にそう対応すれば良いのか考えが浮かばない。
「そうか? 自分は恵まれていない哀れな奴だって顔をしていたぞ」
 組んでいた指を解き、髪を軽くかきあげながらそう言った。後ろに流していた髪が、パラパラと前に落ち、額にかかる。そうすれば一気に幼さが見えるのだが、今夜の荻原は、何か言いたげな強い視線でそれすらも隠す。
「世の中不公平だ。俺はこんなに苦労しているのに、こいつはなんだ、ってな」
「……煩い」
「自分がもし同じ立場だったら、幸せになれたのに。そう思っているんだろう?」
「…黙れ」
「図星を指されたからって怒るなよ」
 口を歪めて笑う荻原を俺は睨みつけた。
 何故こう突っかかってくるかのように荻原が俺を怒らせるのか、わからない。だが、理由はどうあれ、それを考える余裕は俺の中にはもはや無かった。
 荻原の言った言葉は、正直耳に痛い気がした。彼の言うとおり、図星なのかもしれない。そんな思いが俺のどこかにあるのは事実のように思えもる。…いや、自分でもそんな面に気付いているのだろう。だから、こんな言葉に怒りを感じるのだ。
 だが、今はそれを認めたくはなかった。素直に聞くことなど、到底出来ない…。
「何だよ」
 睨みつけた視線を涼しげに受けながら、荻原は小さく笑った。
「…最低だな、あんた」
「お前もな」
 俺の言葉を右から左に流し、そう口にする。
「言いたいことがあるんだろう、言えよ」
「…あんたに話すことは無い」
「嘘をつけ」
「無い」
「…なら、そんな辛そうな顔をするな」
 眉間に皺を寄せ、溜息交じりにそう言った。
「…何?」
「気付いていないのか? …今にも泣き出しそうだぞ」
 そう言い荻原は、腕を伸ばし俺の髪をかきあげた。
「やめろよ…」
 突然のその行動と、見せ付けた敵意にも似たような感情を一瞬にして消した荻原に驚き、俺は反射的にその手を振り払った。
 だが、振り払ったのは俺なのに、腕を下ろす荻原の表情を見て直ぐに後悔した。
(…冗談じゃない……)
 こんな…、これではまるで、俺が悪いみたいではないか。過剰なスキンシップを取ったのは、子供のように俺を扱ったのはこの男だというのに…。
 諦めにも似た寂しげな表情の中に、傷ついた子供のような面を見た。それは極一瞬のことだったが、それだけで十分だった。俺の中に、いわれの無い罪悪感に似た思いが膨れ上がる。
 だが、荻原はそのことは気にしなかったように、軽い溜息を吐き、首の後ろを片手で揉んだ。俺にあんな表情を見せたことに気付いていないのか、…それとも計算か…。
 考えあぐねる俺の耳に、今度は大きな溜息が聞こえる。手を添えたままぐるりと首を大きく回し、続いて肩を回す。
 …疲れているのだろう。当たり前だ、今何時だ。寝に帰るだけだといっていた部屋だ、きっと朝も早くに起き出しているのだろう。
 そこで俺は何をしているのか…。迷惑以外の何ものでもないじゃないか…。
 荻原の感情変化の理由がどこにあるのかはわからないが、仕事を終えて夜遅くに俺の相手をしなければならないと言うそのことだけでも十分だろう。そう、何も言わずに酒を飲むだけだなんて、疲れているこの男にとっては迷惑のことだろう。日頃、荻原の行為を鬱陶しいと言う俺がするものではない…。
「…悪かった」
 謝罪をするのなら、考えなしに押しかけた俺の方だろう。なのに、荻原自信がそう言った。
「怒らせたら話すかと思ったんだが…逆効果だったな。覚えておくよ」
 軽く肩を竦め、おどけた様にそう言った。
「……何だよ、それ…」
「本当に気付いてないのか。お前、変だぞ」
「どこが…」
 俺は荻原の視線から逃れるように掌で顔を隠し、ソファに凭れかかる。
「全部がおかしい。
 いつもは気だるげな中に、絶対に相手に入らせないといった壁を作ってる。そんな感じなんだよ、お前って。だけど、今日は人目も気にせず座り込んでいるみたいだ。辛くて辛くて仕方が無い、だけどそれに自分自身が気付いていない。見ているこっちは気が気じゃないってな」
「…何言ってんだよ」
「大丈夫か?」
「当たり前だろう」
「そんな辛そうな声じゃ、説得力は皆無だぞ」
 この男は誤解している。そう思いながら、俺は小さな溜息を漏らした。
 辛いのではなく、脱力感だ、これは。
 俺に訳を聞かせるために怒らせようとしただと? そしてそれを隠しもせず、あっさりとばらし謝罪し、今度は真っ直ぐにおかしいぞ、どうしたと聞いてくる。…冗談じゃない。
(なんて、馬鹿なんだ、この男は…)
 何でもない。そう言っているのだから、それで終わればいいのだ。態々人の悩みなど訊くなよ。自分にとってはどうでもいいことだろう、面倒だろう。人の思いなんて簡単に持てるものじゃないとわかっているだろう。
 なのに、何故訊いてくるのか。俺には荻原の行動が理解出来ない…。怒らせてまで話させたいのか、からかっている訳ではないのか…。…本気なのか…?
「……自分だけで乗り切れるというのならもう訊かない、嘘でも「何でもない」と言え。
 だが、俺のことで言いたいことがあるのなら、きちんと言えよ」
 悔しいと思う。振り回され、常識はずれなことをされ、こちらとしては遠慮願いたくなるような関係だ。なのに、土足で人の心に入ってくる。…それが出来る。そんなことをされる腹立たしさもあるが、それを許したと言う自分が情けない。そして、それを心底嫌がれない自分が悔しい。
 敵わないと言うことなのだろうか、この男には…。
 手を外し、横目でちらりと荻原を見る。
「…何故、あんたにだよ」
「俺以外のことでお前がここに来ることは無い。そうだろう? 他人に相談なんてしないお前の性格を考えればわかることだろう」
 真っ直ぐ見つめてくる荻原の視線を流しながら、俺は目を閉じた。
 …そうなのだろうか。俺は荻原に話したいと願っていたのだろうか。だからここに来たのだろうか。
 自分自身に問い質しても、明確な答えはいつまで経っても得られそうにない。別に彼に対して怒りがあるわけではないのだから。
 …なら、何をしに来たというのか、俺は…。
「……俺はどうしてここに来たんだろう…」
「…俺に言いたいことがあったんだろう?」
 言いたいこと? …そんなつもりは、やはり無い。何も思いつかない。だが、自分でも気付かずにそう言う態度をとっていたのなら、…俺はこの男に両親の死を訊きたかったのか? …それこそ、まさかだ…。
「マサキ、どうしたんだよ」
 荻原のその声がいつもより優しげでいて、儚い様な気がした。それは、単なる俺の錯覚だろうか…。
「…本当に大したことじゃないだ。…別にあんたに言いたい事があったわけじゃない。なのに、…ただ何となく…、そう、何となく会いたくなったんだ」
 それだけだと軽く笑いながらも、俺は自分自身で別の答えを見つけていた。
「…マサキ…」
「…そうだな。あんたの言うとおりなのかもしれないな。
 …自分では気付かなかったが、ショックだったのかもしれない…」
 そう口に出した途端、何かつかえていたようなものがなくなり、気分が楽になった気がした。そう認めることで、全てとまではいかないが受け入れられた気がする。あの出来事を。過去の出来事だと、目を逸らさずに見ることが出来るようになった気がする。
(やはり拘っていたのは、俺自身か…)
 自嘲気味に軽く笑った俺に、何がショックだったのかと荻原は静かに訊いた。
 本当に荻原に話すことではないのだろう。だが、それと同時に、隠すことではないのだと言う思いも沸く。そう、もう自分の中で決着がついたことなのだから…。拘る事はないのだ…。
 素直に、荻原との出来事は関係なく、父を知っていた者への問いとして俺は口を開いた。
 彼らの事を訊いてみたい。知りたい。純粋にそう思ったのは初めてのことかもしれない。
「……なぁ、あんたから見た俺の父親はどんな奴だった?」
「……」
 目を開けようとしたが、重くて開かなかった。そのまま変わりに口を開く。
「俺にとっては父も母も、全くわからない人だった。
 …理解が出来ないのじゃなく…それ以前に何もわからない。知り合いですらない他人のような者だった。理解しようだなんてことすら考えなかったな」
「…知っていたのか…」
 …その言葉で充分だ…。
「あんたも、知っていたんだな…」
「…ああ。この前、堂本に聞いた…」
「…そうか」
 それを聞いて何を思ったのか。そう問おうとしたが、やめておいた。それこそ、必要の無いことだ。だが、
「何を訊きたい? 俺がお前の父親を潰した訳か? それとも、謝れというのか?」
「…俺は父の仕事には全く興味も何も無く、何をやっているのかさえ知らなかった。今更それを後悔はしないし、知りたいとも思っていない。だから、謝る必要なんて無い。
 あんたも、後悔なんてしていないんだろう?」
「…ああ」
「なら、もういいさ。気にするな。
 …裏切っただのなんだのとあっても、結局彼らが死んだのは、彼らが選んだことだ。あんたを恨むなんて筋違いだろう。
 それに、俺はそう思うほど、あんたを恨むほど、彼らに執着していたわけじゃないからな…」
 心からの言葉だ。本当に気にすることではないのだ。荻原にすれば、少々度は越してはいるが、仕事だったのだろう。俺にすれば、そのことではなく、思うのはただ家族としての彼らのあり方なのだから。
 しかし、荻原はそうはいかないのか、少しの沈黙の後長い溜息を吐き口を開いた。
「……誰から訊いたか知らないが、お前がどう聞いたかは想像できるな。
 だから、それこそ今更な話だが…、…嫌でなければ訊いてくれ…」
 そう言ったがやはり躊躇うのか、再び沈黙を作った後、
「煙草、貰えるか…?」
 その問いに煙草とライターをテーブルに置き、俺はキッチンに行き、灰皿代わりになる小さな皿を持って戻った。
「…時々、無性に吸いたくなるんだよ」
 細く白い煙を吐き出し、荻原は小さく苦笑した。
「…嫌いなんだろう」
「ああ、美味いとは思わないんだがな…」
 人間っておかしなものだな、と肩を竦める。
 荻原が煙草を吸うのは今までに一度も目にした事は無かった。俺が吸うのを止めはしないが、苦手なんだと口にした事があった。体に合わないのだと。
 なので、今の荻原の行為は、まるで自分を傷めつけているかのようにも思えた。
 軽く咳をし、皿に長くなった灰を落とし、再び煙草に口をつける。何分にも満たない短い時間だったが、とても長く感じた。
 短くなった煙草をもみ消し、
「……裏切ったのは、飯田氏が先だ」
 と荻原は声を出した。
「企画は元々俺が考えたものだった。経営状況が思わしくなかった飯田氏に話を持ちかけたのも俺だ。その後、うちの会社の下につくという条件でその企画を譲り、金も貸した。
 順調に行っていたんだ。だが、進んでいくにつれ欲が出たのか会社はやれないと言ってきた。色々理由を言っていたが、結局は息子に残したいというのが最大の理由だ。
 今のままで残せられるものなんて無いだろう、俺が手を引けばどうなるかわかっているのか。そう言っても彼は援助をしてくれ、だが会社はやれないで、埒があかなかった。だから、俺は手を引いた」
 体を起こし前かがみに座りなおすと、荻原が一瞬視線を合わせてきたが、直ぐに外した。逆に俺は俯いた荻原に視線を注ぐ。
「…その後直ぐに倒産した。俺は他の事もやっていたから切り捨てたものの事なんて考えず、金の回収だけを言いつけて、そのことはもう終わったものとなった。
 …だから、堂本に言われた時もピンとこなかった。昔取引をしたことがある息子だなんて言われても、…そんな者は数え切れないくらいいるんだからな」
 俺がテーブルに置かれたままの煙草に手を伸ばすと、荻原は少し顔を上げた。自分の分を抜き取り、ケースから先を出した煙草を向ける。一瞬躊躇ったが、彼はそれに手を伸ばした。
 荻原に火を与え、口に咥えた自分の煙草にも火を点ける。目の前の炎。燃える音が聞こえそうなほど、部屋には静寂が落ちていた。明るい部屋の中で、小さな青白い炎が揺れる。
 カチッと冷たい音をたてその炎に蓋をすると、何故だか少し寂しさを感じてしまった。手の中で消えた熱が名残惜しい。だが、再びつけることはなく、俺はライターをテーブルに置いた。荻原がそれに視線を注ぐ。
「……しばらく考えていて、ある場面がふと頭をよぎった。
 そう、たまたま俺は飯田氏の葬儀の前を車で通ったんだ。運転していた者に言われても、そうか、死んだのか…それくらいにしか思わなかった。だが…。
 …通り過ぎる時、窓ガラス越しに眺めた先に、…お前がいた…。
 あの時のお前は、両親が死んだのに何でもないかのような表情で立っていた。それを見た時俺は飯田氏が言っていた「会社を息子に残したい」という言葉を思い出し笑った。あんな顔をする餓鬼が継いでもやっていけるものかとな」
 荻原が皿の上に幾度も吸っていない煙草を置いた。細い糸のような煙を立ち上らせながら、その煙草はそれでも燃えていた。ゆっくりと皿の上で灰が長くなる…。
「…あの頃はそれで終わった。だが、今にして思えば、…俺はもしかしたら、嫉妬していたのかもしれない…。そんな強いものじゃなくても、その思いが無かったとは言い切れない…」
「……嫉妬?」
 意外な言葉に、煙草を咥えたまま俺は疑問を表した。
「…ああ。あの状況で息子に会社を残したいと言った彼に、俺は絵に描いたような家族を想像して、息子のお前に嫉妬したんだよ…」
「……全く当たっていなかったな」
「…いや、そうでもないさ。
 彼は会社を残せはしなかったし、父親としては確かにお前の言うように足りないところだらけだっただろう。だが、ちゃんとお前の親だ。……お前もわかっているんだろう…?」
 くしくも、田島さんと同じ言葉を荻原は言った。
 同じ日に、同じ言葉を言われるほど、俺はそんなに子供なのだろうか…。そうかもしれないな。そう思え、苦笑が漏れそうになる。
 荻原が話した父の姿はあまりにも霞んでいて、やはり俺には曖昧なものだった。
 あの頃の感情が、じわりと心に浮きあがる。突然のことでやるせない思いを抱えてはいたが、それよりも何も感じないといったものの方が大きかった。荻原の言うように、葬式も涙の一つも見せず淡々とやっていた。事後の事もなる様にしかならないのだと受け入れていた。
 そして、父が会社を俺に残したがっていた事もあの時聞いてはいたが、特に何も思わなかった。彼が作った会社だから血の繋がったものに残したいのだろう、それぐらいにしか思わず、当たり前のように受け止めていた。何も見ていなかった。
 立派な親ではなかっただろう、彼らは。だが、俺もちゃんとした子供ではなかったのだろう。だから、何も気付こうともせず、ただ逃げてばかりいたのだ、家族と言うものから。
 それは仕方がないことだ。そう思う反面、後悔に似た思いも少しはある。だが、本当に、荻原を責めるだとか、両親を責めようとかも思わない。
 やはり、俺は今を生きている。いや、この現実以外の事を考える余裕がない。自分以外の事を気にする事が出来ない。
 だから、荻原の懺悔のような言葉は、ただ荻原と言う男の過去以上には何も思えなかった。俺が苦しんだ過去と、荻原の過去は違うものだ。そう、例え少しの接点はあったとしても、それを共有する事は絶対に出来ない。だから……。
「…後悔していないのなら、気にすることはないだろう」
「マサキ…」
「あんたらしくないな」
「…お前もな」
 俺に気を使うなんて、お前らしくない。
 口の端を上げて笑う荻原は、何故かいつもより幼く見えた。
「言わなかったのは、お前に嫌われたくなかったからかもしれないな…」
 そう言葉を括った彼に、俺はなんとも言えない気分になった。
 俺と出会わなければ、荻原は過去のことだと思い出すことも無かったのだろう。
 俺は今、新たな傷を彼に作ったのだろうか…。
 そして、俺にもまた一つ、傷が出来てしまったのだろうか…。
 だが、痛みの無いその傷は、俺には必要なものなのかもしれない……。


 俺はその日から荻原のマンションに入り浸るようになった。

2002/05/09