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俺にとって、俺以外の人間とは一体なんなのだろうか。
他人は他人でしかないと思っている。人を嫌いというよりは諦めているという感情で俺は他人が苦手だ。こんなものだと望むものも期待も何も持たずに付き合うのが一番いい。そうすれば、傷つくことも幻滅することも何もない。これは他人という者ばかりではなく、自分自身に対してもあてはまることなのかもしれない。
そんな中で多少の例外となる者ももちろんいる。その内の一人、俺の面倒を見てくれた北沢冴子さんは、自分自身より大切な存在だった。
全くの赤の他人だったのに、彼女とは本当の両親よりも家族だった。後にも先にも、彼女以上に関心をもてる者はいない。無くしたくはない絶対の存在。
あの気持ちを愛していたと言うのだろうか。
愛という感情がどんなものかはわからないが、無くして心に出来た空洞に気付いた時、そこにはそんな感情があったのではないかと思った。
彼女がこの世から去って、俺の心はまた昔に逆もどりしているかのようだ。
今も彼女へ向けた気持ちを持っている。だが、それは彼女が生きていた頃とは形を変えてしまっている。この残った感情は、純粋な愛ではないだろう。温かな安らぎが少しずつ薄れ、その代わりに、悲しみや絶望、彼女に対する怒り…。そんなものが少しずつ着実に募っていく。だが、俺の中の彼女の存在はいつまでも代わることはないだろう、大切な存在。
他人との関係がわずらわしい。かといって、跳ねつけるほどのものではない。そう、正にどうでもいい存在。人と人の関係なんてとても脆い。特に俺は他人への執着が薄いので余計にか。去るものを追う気はない。
その中で今も冴子さんへの思いは特別だ。好きだけではない感情も、すべて俺には必要なものだと心からそう思う。
なら、何故、その彼女がいなくなった今、俺はこうして生きているのだろうか。
何度も考えた疑問に答えはない。ただ、こうして生きていられるのは、彼女だけが俺を俺として愛してくれたからだ。彼女の思いがあるから、俺は生きていけるのだ。
こんな俺を自分でも弱い人間だと思う。面影に縋っているだけだと気付いている。だが、俺にとってはそれが生きる糧だった。
――けれど、もう…――
「…どうした? もう酔ったか?」
思いに耽っていた俺の耳に笑いを含んだ声が入ってくる。それと同時に流れ込むメロディ。彼女が好きだと言っていた、静かな、…切ない曲。
「…いや、なんでもない」
握り締めていたグラスをテーブルに置き、俺は椅子に凭れ髪をかきあげた。
客が10人も入れば一杯になるだろう狭い店の中には、俺たち二人以外には、店主とピアノを弾くバーテンだけだ。狭い原因の一つのグランドピアノが綺麗な音を奏でる。
横に座る荻原曰く、ここは店主が趣味でやっているだけで客の入りなんて全く考えていない気まぐれな店で、いつでもこんな感じなのだそうだ。実際は店の雰囲気もどちらこと言えば高級そうな感じを持ちつつ落ち着ける場所で、人気はかなりあるらしい。だが、店主の気分しだいで開ける店なので、一人で飲みにくる常連ばかりであまり広がらないのだそうだ。
適度にしぼったオレンジ色の光に照らし出される店内は、黒を基調として一瞬冷たさを感じるが、すぐに自分もその雰囲気に入り込むような、まるで柔らかい温かさで包み込まれるかのように感じがする落着きを持っている。確かにこんな店ならば、誰かと来るより一人で静かに飲んでいたい、そんな秘密の場所だろう。
店主は少し気難しそうな学者であるかのような雰囲気を持っている年配の男だが、確かに無口ではあるが見た目ほど神経質ではないのがグラスを扱う仕種や、酒の作り方を見ればすぐに窺い知ることができる。
ピアノを弾く男は雇い主とは逆で愛想の良い笑顔を持った青年だ。
音楽の善し悪しを聞き取る能力なんて俺にある訳がないが、彼の演奏は上手いとわかった。自分の音を主張ばかりするのではなく、店の雰囲気を壊さないよう、客の思いを邪魔しないよう抑えながらも、じわりと静かに心に流れ込んでくる、そんな演奏だった。
溜息を吐きながら連れて来られたこの店の雰囲気がとてもよく、演奏と美味い酒と時たま思い出したように交わす男との会話に、こんな静かな時も悪くない、と思う自分に気付く。
(…なら、少しはこの男に感謝すべきなのだろうか)
何年か振りに聞いた曲に耳を傾ける俺の心は驚くほどとても穏やかだった。
結局、荻原が言った通り駐車場に止まっていた彼の車に乗り込み、何故かドライブをするはめになった。
学校関係者の駐車場には彼の車と、昨日のものとは違ったが同じような黒塗りのベンツが堂々と止まっていた。一体どうやってここに来たのかはわからないが、俺には聞く気力もなく、ベンツの中の男達と言葉を交わす荻原を視界に治めながら溜息をついていた。
ふと荻原が何かを放る仕草を見せたのでそちらに顔を向けると、何かが微かに光った気がしたが、木の影に隠れすぐにわからなくなる。バンッと音がしたかと思ったら、助手席に座っていた二十代半ばほどの男が慌てて車を飛び出しその方向に駆けていった。
ついて来るなよ、と荻原は笑顔を見せつつ低い声で運転席に座る彼より10は年上だろう男に念を押し、渋る俺を車に乗せて大学を後にした。
どこに行こうかと嬉しそうに聞いてくる男に眉を寄せながら、先程の彼らのことを聞くと、「見張りだよ」と肩を竦めた。見張りというよりは、監視役だろうと思もったが口には出さず、ならついてくるんだろうと訊くと、「見ていなかったのか?」と首を傾げた。来るなと言っていた事は知っているが、向こうも仕事だろう。だが、
「鍵がなきゃ、車も役に立たないだろ」
「鍵?」
「ホントに見ていなかったのか。放っただろう、鍵」
そこで、離れた植え込みに落ちていったものが何なのか気付く。目の前で口角を上げる男は、あの車の鍵を抜き取り放ったのだと言っているのだ。
都心の中にある学校でも意外と緑が多い。きっと何か大儀な名聞があるのだろう。だが、その殆どは、無意味なものだ。芝生を植えていても、そこには進入禁止の看板があったり、むやみやたらに植えたのだろう、邪魔な場所に中途半端な植え込みがあったりする。その植え込みには獣道ならぬ、人一人が通る分だけの道が出来ている。誰もが頻繁に通るので、その部分は綺麗に道となり、雑草一つ生えていない、まるで畦道のようである。
だが、荻原が鍵を放ったのは駐車場と教育学部棟の間にある植え込みで、そこは人が入る隙間は皆無な場所だ。愛想も何もない葉っぱばかりの木が覆い茂っている。周りを俺の胸ほどまでの高さの木で囲み、中央には5メートル弱ぐらいの木が2本ある。遠目にも近目にもただの緑の塊だ。しかし、その高い2本の木は、春が終わる頃に花粉を飛ばし地面に黄色い絨毯を作る。冬には誰がやりだすのかクリスマスに近付くにつれ、ツリーの変わりにかモミの木の様に色々なものがぶら下がる。他にも大学祭やその他の行事のたびに看板をつけたり人形がぶら下がったりするため、他の植え込みに比べ何かと視線を浴びる木だ。
そんなところで探し物とは、他人事ながら少々気の毒になる。直ぐに見つけられないだろうことは誰が見ても明らかだ。見つかるかどうかも怪しい。
「…あんな所…、見つからないぞ…」
そう言った俺に、荻原はクククと喉を鳴らしながら、
「お前って、見た目に反してかなり天然か?」
「……」
「見つかっていいなら、態々放ったりなんてしないだろう。んん?」
確かにそうだが、こう馬鹿な行為を正当防衛かのように居直られてもこちらはどうしようもない。ただ、ムカツクだ。
そんな俺に、ちょうど信号で止まった荻原が視線を向けニヤリと笑い、ポケットから取り出したものを俺に渡した。
「見つかるはずがない、絶対に」
「…これ…」
「あの車の鍵だ。
あいつらが今探しているのはこの車のスペアだ。いや、田端は気付いて次の手を打っているかもしれないがな」
青に変わった信号に、再び前を向き運転を始めた男の横顔を見ながら、先程の男達も今朝あった樋口という若い男も、餓鬼のような男についているだなんて哀れだなと思ってしまったのは仕方がないだろう。そして、これから連れまわされる自分自身の不運にも…。
頭が痛くなってきたのは、…病気のせいではなく、この男のせいなのは明らかだった。
その後横浜まで車を飛ばし、高級レストランで食事。
庶民派の高級レストランとしてテレビに取り上げられてから何かと話題になっている場所だったので、世間に疎い俺でも知っている場所だった。値段はそれなりにするが、カジュアルな格好でも入れる形式に拘らないレストランというのが売りの店である。なので、服装の点では問題はなかった。問題なのは荻原といるということだ。
ただでさえ俺は周りからの視線が嫌だと言うのに、荻原といることで余計に注目を集めた。支配人らしき者が挨拶に来るのは仕方がないで終わらせてもいいが、浴びる視線に笑顔を振りまくのには、席を立ちたくて仕方がなかった。芸能人か何かと勘違いしているのではないか、目の前で無邪気に笑う男も、周りのバカな客達も。
好き嫌いはないがそんな状況で食が進むはずがない。何より食べなれていないからか、綺麗に飾られた高い食事は大しておいしくも感じられず、早々に努力は放棄しワインばかりを口にしていた。
そんな俺に荻原は口に合わないかと訊いてきたが、そうだと答えられるはずもなく、こんな場所は慣れていないんだと言うと、俺もだと笑った。
「…なら、連れて来るなよ」
愛想のよい笑顔を顔に乗せる男に俺は眉を寄せる。
「ここはまだマシだろう?
俺も堅苦しいのは苦手だからあまりこんな所は利用しない。だが、それはあの成金趣味かというようなうそ臭い高級感に拘った場所が嫌なだっけであって、料理は美味いから食いたい。
なら、どうする?
…気楽に行けて、美味いものを出す店を作ればいい」
「ここ…あんたの店なのか?」
「…まさか。俺以外にもそう思った奴がいたんだろう」
運転するからなと、ワインではなく水を飲みながらニヤリと笑った。
そうしてレストランを後にし夜景を見ながら帰路につく。これで終わりかと思ったが、そんなはずもなく、当然のようにこの店に連れて来られたのだった。
余韻を残して演奏は終わり、店内には静寂が訪れる。だが俺の耳にはまだ最後の一音が消えないピアニッシモで響いていた。耳に残ったその音、実際にこの店内に流れているかのような錯覚に見舞われる。鍵盤からそっと手を外し、目を瞑っている彼もまた、その音を聞いているのかもしれない…。
耳からその音が消えると、俺の上にも静寂が降りてくる。それはまるでこの場の時を止めたかのような、静かな空間…。厚い扉の向こうには都会の喧騒ではなく、静かな森が広がっていそうな錯覚。
だがそれも直ぐに流れ出すピアノ音にかき消される。
その消えた無が寂しくもあり、それ以上に安心が俺の中に生まれる。
流れだしたのはラ・カンパネラ。小さな鐘を表現した高音の旋律が耳に心地よく響く。
そんな中、カチャリと扉の開く音と共に、
「やっぱり、ここでしたか」
と、男が入ってきた。顔見知りなのだろう、軽く頭を下げる男に「今晩は、堂本さん」とマスターが声をかけた。
「いつものでいいですか?」
「ええ、お願いします」
堂本と呼ばれた男は頷きながら笑顔で答え、荻原に視線を向け、「座らせて頂きますよ」と、眉を寄せるのも気にせず彼の隣の席に腰を下ろした。
「…ついてくるなと言っただろう」
溜息交じりに声を吐き出しグラスを煽る荻原の姿に口元を緩め、男は運ばれてきた琥珀色の液体を少し口に流し込む。
「ったく、邪魔しにきたのか?」
「まさか。あなたじゃあるまいしそんなことはしませんよ。
田端からの逃げられましたの報告にも放っておけと言いましたからね、誰も行かなかったでしょう?」
「…そうか、サンキュウ。
――っで、お前は?」
「私はここにいるだろうと予測してきてみただけですよ。つけたわけじゃありません」
笑顔で男が言った言葉に荻原は眉間に皺を寄せた。
「……悪かったな、単純で」
「いえいえ。私としても興味がありましたからね、わかり易い場所にいてくれて良かったですよ」
「……」
軽く舌打ちしてグラスを傾ける荻原の向こうで、男は俺に視線を向けニコリと笑った。その笑顔に思わず俺の眉間にも皺が寄る。
歳は40ぐらいだろうか。だが、短く刈った髪に健康的な焼けた肌、何より目を細めて笑う顔が、見た目の年齢よりも若い雰囲気を作っていた。先程から荻原に向ける視線はとても温かく、男が荻原をどれだけ大切に思っているかがわかる、それを隠そうともしない優しい目だった。
だが、俺に向けた彼の目は、笑ってはいなかった。まるで俺の価値を量るような、それでいて興味がないような、鋭い冷めた視線。そう、彼の目には俺は俺ではなく、ただの無機物の物かのようである。自分が大事にしている荻原が興味を持った者だとしか判断しておらず、その者への感情は全く無いのだろう。
彼にとって俺は邪魔者以外の何でもないというところか。
微笑みを乗せた男の顔から視線を外し、俺はグラスを煽った。綺麗な青から緑のグラデーションの液体が俺の体に消えていく。
「ったく、お前ってホント嫌な奴だな」
はぁ〜、と大きく息を吐いた後、荻原が髪をかき上げながら言った。その言葉に「今更でしょう」と笑いを漏らす。
グラスを空にしマスターに同じものを頼み、荻原は俺に視線を向け親指で隣に座る男を指さし紹介した。
「こいつは堂本。俺にとっては兄貴みたいな奴だ」
「おや。そう思ってくれているんですか」
クスリと荻原の言葉に笑い、男は肩を竦めた。
「なら、私の言うことをもっと聞いて欲しいですね」
「それとこれとは話が別だろう。俺にそんなものを求めるなよ」
「そうですね、確かに」
「…お前、からかいに来たのか?」
「えぇ、もちろん」
「ったく、なら帰れよ」
幾分不機嫌そうに荻原が言っても、彼には全く効果はないようだ。正にその姿は悪餓鬼の弟を見る兄のようである。
「いえ、まだそちらの方を紹介して頂いていませんよ。それとも、私には出来ないので?」
「……知っているんだろう」
「いえいえ。私はあなたが昨日から綺麗な男を気に入って仕事も放って追っかけているとしか聞いていませんよ。この方がその人ですか?」
「…あぁ、そうだよ」
荻原が酒を一口飲み、溜息交じりにそう言うと、
「はじめまして。堂本洋輔(ヨウスケ)と言います。荻原がお世話になっているようで、すみません」
男はニコリと俺に笑顔を向けた。
関わりなんて持ちたくない。それが正直な俺の気持ちだ。特にこんな視線を向けるような男とは絶対に。荻原とこの男がどういう関係だろうと俺には関係がないのと同じで、荻原を挟んでの知り間なんて増やしたくない。
頭ではそう拒絶していた。人のよさそうな笑みを見せているが、この男は危険だと警告がなっていた。そう彼からは、昨夜荻原が一瞬見せたような、人を人だと思わないような、独特の雰囲気が感じられた。荻原はそれを感情の一部として表すが、この男の場合はそれすら隠している、そんな者のような気がした。
この場から立ち去りたい、彼にこれ以上付き合う気はないとそう言って終わりにしたい。そう思った。なのに、俺は声をかけてきた男の言葉を受け取った。男の視線が、それを許さないように感じた。
「…飯田です」
呟くように言った声は自分にだけわかる緊張を含んでいた。
「飯田さん、ですか。荻原とはどんな関係ですか?」
「おい、そんなこと訊くなよ」
呆れたようにそう言った荻原に、「訊かれてまずい関係ですか?」とおどけて笑う。
「…わかりません」
どんな関係かと訊きたいのは俺だろう。
昨日偶然会った。酒を飲み酔いつぶれた俺は面倒をかけさせてしまった。それだけだ。その後の発展なんてないと俺は信じていた。なのにそうではなかった。
俺の言葉に「何だそれ、冷たいな」と荻原がクククと笑ったが、男は真面目な顔で訊いてきた。
「友達ではないんですか?」
その問いに俺は小さく笑いを漏らす。
友達の定義なんて人それぞれだろうが、俺の中のそれに荻原があてはまるわけがない。振り回されてばかりで、好感の持てる行動なんてとることがない彼に、どうしてそんな感情を持てるだろう。
そもそも彼に兄のような者だと言われたこの男は一体何を考えているのか。弟の交友関係に首を突っ込んでくるなんて。幼い者ならいざ知らず、二十代半ばの男を何だと思っているのだろうか。
…そう、こんな者達に付き合えるか……。
「少なくとも俺はそうは思っていませんよ。
昨日出会った、ただそれだけです」
「なら、…追っかけられて困っている、ですね」
「…そうですね」
大事な弟が気になるのなら見張りなんてつけず、首に縄でもつけて自分で四六時中見張っていればいい。そうすれば周りにも迷惑がかからないだろう。
(そう、俺は迷惑なんだよ。追いかけてくるこの男も、それを気に入らないあんたも。
きちんと監視しとけよ…)
少し酔いが回ってきたと感じながらも、腹立たしさに酒に手を伸ばすのを止められない。心で悪態をつく俺を知ってか知らずか、男は今度は隣に座る荻原に質問を投げかけた。
「仁さん。どうして追っかけているんですか?」
何を当たり前なことを聞くんだと言わんばかりに荻原は、
「そんなの、気に入ったからに決まっているだろう」
「ったく、開き直るんですか」
「それ以外に何がある」
正当なことだと疑わない彼の態度に俺は溜息をつく。
気に入っただけでここまで振り回される俺は一体何なのだろうか。彼には俺が一人の人間だと見えていないのだろうか。
(そんな理由だけで付き纏うなよ…)
呆れるのは俺ばかりではなく、男もまた大きな溜息をついた。
「私は人の尻を追っかけるように育てた覚えはないですよ、情けない」
「…煩い」
お前帰れよ、と荻原は言い残し手洗いに立った。
「都合が悪くなると逃げるんですよ」
店の奥に向かう彼の後ろ姿を見て男は肩を竦め、俺に視線を向けて笑った。その笑顔は先程までのものとは違い、荻原に向けたような優しさを含んでいた。
だが、俺にはその笑顔の方が、何故かとても危険なように感じた。
カキンとグラスの中の氷が弾く音が異様に響いた。いつの間にか、ピアノの演奏は終わっており、店内はひっそりとした静けさに包まれていた。
「いらっしゃいませ、堂本さん」
ピアノを弾いていた青年がカウンターの中に入ってくると、マスターは彼に後を頼み、奥の部屋に姿を消した。
「荻原さんは帰ったんですか?」
手を洗いグラス磨きを始めた男が「そう言えば」と呟き言った。
「いえ、少し苛めたら不貞腐れてトイレに逃げたんですよ」
その言葉に青年はクスクスと笑い声を上げた。
「瀬戸くん、もう弾かないの?」
「リクエストがあれば弾きますが?」
「なら、次までに用意しておくよ」
肩を竦める男に笑みを返し、彼は俺に視線を向けた。
「そちらのお客様はどうですか?」
「いや…」
と、首を振る俺に、
「大抵のものなら弾けますから、なんでもどうぞ」
「…いいです。聞きたい曲は、先程聞かせて貰いましたから」
「どれです?」
「…ソナタ」
「あぁ、いい曲ですよね。プーランク独特の旋律が何ともいえず、僕も好きなんです。
今度いらした時は、ピアノではなく是非フルートでお聞かせしますよ。やはりあの曲はフルートでしか表現しきれませんからね。ピアノでは何て言いますか、あの宙に浮かぶような感じがでませんから」
細い銀のフレームの眼鏡の奥の瞳を優しく細める。
「…フルートもやられるんですか?」
「えぇ。大学での専攻はそちらでしたから」
「瀬戸くんはヴァイオリンも弾けるんだよね」
空いたグラスを軽く上げ酒を頼みながら言った男の問いに、青年は頷きながらテーブルの上のグラスを取る。
「えぇ。今は他にも色々やっているんです」
「他? あぁ、そう言えば卒業したんだよね」
「はい。今は中学で臨時講師をしているんです。音楽の授業と、吹奏楽部を見ています。最近はあまり吹奏楽は人気が無いようで部員も少なく殆んど帰宅部といった状況ですよ。ま、余っている楽器で遊んでいる僕にとっては楽なのは願ったりかなったりですけどね」
ボトルの口を閉めながら口元に笑いを乗せる。
「プロは諦めたの?」
「えぇ。試験も受けませんでした」
「何故?」
差し出されたグラスに手を伸ばしながら男が質問を重ねる。
「周りの連中を見ていたら、自分が本当にプロになりたいのかわからなくなったんですよ。こうして、好きな時にやれるだけで十分じゃないのか。そう思うようになったんです」
そう微笑む青年に、
「…後悔していないんですか?」
気付けば俺はそう訊いていた。
「……夢だったんでしょう?」
単純に不思議な気がして深く考えもせずそう聞いてしまった。
わからなくなった。そう言った彼には諦めも何もなく、なんでもない事のように語り、好きな時にやれるだけで十分だと言う。だが、本当にそうなのだろうか。何故だかとても気になった。
「…そうですね。確かに子供の頃からプロになりたいと思っていました。でも、それも本当に自分の夢なのかわからなくなったんです」
「どういう意味?」
男の問いに「上手くは言えませんが」と青年が口を開く。
「小さい頃はヴァイオリンに夢中でした。周りが上手いと誉めてくれるのが嬉しくて。プロのヴァイオリニストになるんだとばかりいう俺を、両親は喜んでいましたよ。
でも、ヴァイオリンは僕にとって、唯一の絶対な物ではなかったんです」
「何か心変わりがあった、それでヴァイオリンをやめてフルートに?」
「心変わりというか、別の物を受け入れる余裕が僕にはあったということです。ヴァイオリンへの思いは変わっていません、今でも子供の頃と変わらず好きですよ」
でも、それが駄目なんですよと青年は微笑んだ。
「変わらないんです。あのころと同じままの好きなんですよ。今にして思えば、だからこそ僕は他のものを求めたのでしょうね。
高校の頃友達の影響でフルートに興味を持ち、周りの先生や友達の反対に耳も貸さずそれで大学に入りました。
その事は今でも良かったと思っています。ヴァイオリンを続けていていると見えなかったものが沢山見えましたから」
「と言うと?」
「下手だったんですよ。周りは子供の頃からやっている者達ばかりなので、致命的に下手で、怒られてばかりでした。周囲からも嫌味なども沢山言われましたよ」
まるで小学生のイジメのようにね、と肩を竦める。
「瀬戸くんが? ホントに?」
男の驚きは俺も同じだった。誰からも好かれるような物腰の柔らかい優しい笑顔の青年がイジメられるとは想像し難い。だが、
「えぇ。本当に下手でしたから、教授が怒るのは無理もないし、そんなことで時間を割かれる周りが腹を立てるのも当然です」
本心からの言葉だろう、笑顔を崩さずそう言う彼の顔には特別な感情は感じない。
「そんな中でしたがね、僕は楽しくて仕方がなかったんです。楽しい、そんな気持ちでずっとやっていました。だが、プロになるためにはそれだけでは駄目なんです。
友人達は死に物狂いで試験に挑んでいました。弾けないことに悩みスランプになった者を見ると敵が一人減ったと喜んだり、人の足を引っ張ったり、蹴落としたり。冗談だろうというような人間模様が繰り広げられているのを見ていて、彼らが求める物と僕が求める物は違うんだと思い知らされました。
人間社会で争いが悪いとは言いませんが、嫌になったんです。そう言うのに加わるのが。
僕は演奏すると言うことが好きで、それをしていたいからプロというのに憧れた。要はまだまだ遊んでいたい、好きなことをしていたいと言う我が儘ですね。でも、殆どの者はそんな気持ちだけではなかった。彼らはその地位を目指していた。大学を出ていい先生の下につき教えをこい、色んな大会に出て名を売り、技術をあげ、プロになってもそれは続く。僕のように好きだけの気持ちでいけるような甘い所じゃない」
「…好きだけでは駄目、ですか。確かに世の中はそんな思いだけで通用するものじゃない。でも、それでも瀬戸くんならやっていけたんじゃないですか? 実際そんな人もいるでしょう」
「ありがとうございます。でも、どうでしょうか。
頭ではわかっていましたが、それでもやはり、楽しく演奏できるからこそ僕はここまでやってきたのだと自分でわかっていましたから、彼らのように割り切れなかった。
僕はまだまだ子供だったんです。そんな現実を知ってはいましたが、理解はしていなかったんでしょう。急にピリピリしだした周りについて行く気がしなくなった。
その点、友人達はそんなことをも理解してプロを目指していたんですよね。気付いた時はなんて僕は甘い奴なんだろうと可笑しくなりましたよ。だが、それは諦めとかではなく、何て言うか…「あぁ、そうなんだ」と単にそんな気分になっただけだったんです。
子供じゃないんだから、弱い奴だ、期待をかけてくれていた人にはそう言われ、プロになれと言われました。でも、確かに自分でも綺麗事だと思いますが、僕は本当に嫌だったんですよ。自分が子供の頃から楽しいと思い続けてきたのを否定される場所にどうしていけますか。
甘い場所にいて何が悪い。そう思いだすと、僕はプロというものにも、それを目指し競争していく場所にも魅力を感じなくなった。ただそれだけです。
だから、別に後悔はしていないし、これからもしないでしょう。なにも、僕は夢を失ったわけじゃないのですから。もしまたプロになりたいと強く願う時がきたら、その時に動き出せばいいんだと思っています。
焦っても仕方がない。自分の夢に早いも遅いもない。僕はそう思うんですよ」
そう言い微笑む彼の顔には確かな未来を見つめる強い瞳があった。
何も言えなかった。ただ、とても羨ましく思った。自分のいる場所を信じていることも、その場に自分の足で立っていることも。そして何より、自分の思いを注ぎ込める何かを持っているということを……。
「…飯田さんは、A大の学生でしたよね」
俺と同じようにしばらく黙っていた男が訊いてきた。
「…えぇ、4年です」
「就職は?」
「まだ何も決めていません」
「今は大変ですからね」
僕もたまたま引っかかっただけなんですよ。教採は一次で落ちたんです、と言う青年の笑顔から視線を逸らし、俺は手の中のグラスを見つめた。
「……俺は、やりたいことなんて、…思いつかないんです」
何をしたいかなんて、今まで考えたことがあっただろうか。
高校も大学も、自分が行ける範囲の中で少しでも学力の高い学校をと言う教師の進められるままに決めたのであって、何かをしたいという目的で選んだわけではない。なのに、今いきなり人生と言える仕事を決めろと言われてもわかるわけがない。
…それに、今の俺にはその未来すら見ることが出来ないではないか。
喉に流し込む液体が酷くドロリとした物のように感じ、寒気を覚える。息をつき同じものをと頼んだ俺の手から離れたグラスが、何故だか青年の手に入った瞬間、光を受け別の物のように輝きを増す。
――違うのだ。俺は彼と同じ人間ではない。そう、俺は俺でしかないのだ。
だから、彼を羨ましいと思うことでさえ、滑稽なことでしかないのだろう。比べるべきものではない。俺と彼は何もかもが違うのだから…。
たった一つしか違わない青年がとても大人に感じた。なんて俺は子供なのだろうか……。
「……荻原さんが誰かを連れてくるなんて初めてで、正直僕はあなたが何者なのか気になっていたんです。…仕事仲間のようには見えませんでしたからね」
スッと俺の前にグラスを差し出しながら彼は言った。
「……」
「でも今、なんとなくですが、あの人があなたを連れてきた理由がわかった気がします」
その声に視線を上げた俺の瞳を捉え、青年は優しく笑った。
「…えぇ。…そうですね」
青年の言葉を受け、男も俺に視線を向け言葉を紡ぎだす。
「私も彼が興味を持ったことが不思議だった。失礼ながら、愛想も無いただの学生ですからね。こちらが不躾に眺めても全く気にしませんし、正直、面白味の無い者だと、何故彼が拘るのか理解出来ませんでした。
荻原には二度と近付かないで貰いたい、そう思いました」
言っている言葉は酷いものだが、彼の声の色はとても優しかった。そして、その瞳も。
「ですが、そう思いながらも、何故かとてもあなたを気になっている自分がいたんです。話をして気付きました。そう、あった瞬間に私はもうあなたを認めていたんだと。気に食わないと思ったのはささやかな最後の反抗ですよ。弟を取られたくない兄の気分を味わったからですね。でも、それも直ぐになくなりました。
今なら荻原が何故あなたに引かれたのかわかりますよ」
二人の言葉に俺は首を傾げるしかなかった。
理解不明なのはこっちだ。どうして荻原といい、この二人といい、訳のわからないことを言うのだろうか。俺の知らない俺を彼らは揃ってみているのか、…馬鹿馬鹿しい…。
俺には彼らの言葉も、荻原の言葉も素直に信じられるものではない。…信じたくはない。信じられない。…そう、どうしてそう信じられる。この俺に、何かを感じ惹かれるなんて絶対にないだろう。自分がどんな人間か、他人よりも俺はわかっているつもりだ…。
「…堂本、さん」
「はい」
「…あなたにとって彼は大切でしょうが、俺は迷惑で仕方がない」
「……」
「彼が俺を気に入るのも、それを納得するあなたの気持ちも、俺には全くわかりません」
今言っておかなければ。何故かそんな感情に動かされそう言った俺に、彼は「そうですか?」と首を傾げた。
「ほら、犬や猫を可愛いと気に入っても抱いて撫でるばかりじゃないでしょう。苛めたり、悪戯したり、そうやって可愛がる。それも愛情表現でしょう」
「……」
「荻原もそうですよ」
「…俺はあいつにとって犬や猫だと?」
酒が回ってきたのか、馬鹿な質問を口にする。そんな俺にクスリと彼は笑い、
「犬や猫は例えですよ。でも、そんな感情でしょう。
あなたの事が気に入ったんですよ。それは荻原の心の中なので私には理由は言えません。だが、あなたに掛かる迷惑も気にせずこうして連れ回すのはわかる気がします。
確かにその表現が子供のようですから、あなには迷惑なものでしかないですよね。それは本人も多少なりとも気付いているでしょう。だが止められないんですよ。あなたをかまうのが嬉しくて楽しくて仕方がないんです。
それこそ、犬や猫なのは荻原の方かもしれませんね」
その言葉に青年も笑う。しかし、俺は眉を寄せるしかない。
「…迷惑なんです。…あなたからも止めるように言って下さい」
「それは私が言っても無駄でしょう。彼が何かに執着する事は珍しいんですよ。
ああやって笑うこともね」
「…いつでも笑っていますよ…」
「それはあなたの前だからでしょう。
いや、そうですね、いつも笑っている。だが、それは癖と言うか、何と言うか。立ち回るのがとても上手い人ですからね、人前ではあまり感情を見せず、笑って相手の懐に入る。だが、本当は他人なんて気にしていない、興味が無いそんな人間です」
「……」
意外すぎて誰のことを言っているのかわからなかった。そんな俺の驚きを感じながら、彼は笑顔で話を続ける。
「確かに自分の懐に入れた者は大事にする。だが、それをも一瞬のうちで捨て去ることも出来る者なんです」
「…誰のことですか」
「荻原ですよ。
そう、見た目も中身も明るい青年ですよ。だが、少し感情が欠落しているんですよ。極端なことを言えば、自分以外の者は興味を持つ対称ではないんです。ただの仕事上の相手や、自分を慕う者や、そう言った位置でしか見ていないんです。
もちろん例外も何人かいますが、あなたのように何も関係ない者を気に入ったのは初めてのことかもしれません。彼があなたを追いかけていると聞いた時、私は耳を疑いました。もしかしたら何か事情があるのかもしれない、そう思いました。だが、こうして見にきてみると、純粋に他人に興味を持った荻原がいた」
カチンとグラスを片付ける青年の手の中から乾いた音が漏れる。だが俺は、真剣な目で視線を合わせてくる男から感じる強い感情に飲み込まれていた。心が震え、耳の奥に高い音が響く。耳鳴りの他に、俺は自分の体を流れる血液の脈動を感じた…。
「驚きましたが、同時に私は嬉しくも思いました。…そして、正直、怖くもあります…。
…大変ですよ、彼に気に入られたら」
……それはもう十分わかっている…。いや、わかっていたつもりだった。だが、それは想像をはるかに越えているようだ…。
…こんな事は聞きたくはなかった。知りたくは無かった――
そんな俺の気持ちを察したのか、
「私はズルイ男です。こうしてあなたに聞かせることにより、逃げられないようにしているのかもしれない。逆に、直ぐに逃げろと言いたいのかもしれない。
だが、どちらにしてもあなたにとっては、気にしなければならない者となった。嫌だ、では終われないんですよ、もう…。
彼に気に入られると言う事は、そう言うことなんです…」
堂本さんの声が、耳の奥で何度も響いた。
「おや、遅かったですね」
笑いながら言う堂本さんの声に俺は下げていた視線を上げた。「ああ、ちょっとな…」と答えながら荻原が席につく。ネクタイを少し緩める彼の動きをなんとなく見ていた俺の視線に気付き、軽く眉を寄せた。
「おい、あまりこいつに飲ますなよ…」
「心配しなくても虐めていませんよ」
「いや、そうじゃなく。こいつは飲むと寝るんだよ」
何杯目かになるグラスを傾けている俺を見ながら、荻原は溜息交じりにそう言った。だが、その声は俺にもわかるほど笑いを含んでいる。
「そうなんですか? でもまだ大丈夫でしょう?」
荻原の発言に堂本さんばかりか酒を作っていた青年までもが俺に視線を向ける。
「……」
「見た目じゃ全くわからないからな。もうかなり飲んでるだろう?」
「…さあ、わからない」
訊いてきた荻原の問いに興味はなく、考えもせずにそう答える。どれだけ飲んだかなんて関係なく、俺はまだ飲みたい気分なのだ。それでいいだろう。
「ったく、その返答で十分怪しいじゃないか」
「…なんだよ、それ」
「酔っていなかったら返事なんて返さないだろう。お前と会話が成立してきたら酔っている証拠だろ」
…今までも言われてきたことだがこの男の口から聞くと、なんだか馬鹿にされているような、こんな俺を笑い、楽しんでいるような感じがして…、ムカツク…。
「…どうでもいいよ、そんなの。
…それより、あんたさ」
「ん?」
「俺にかまうのは止めろよ。…あんたのペットなんて真っ平だ」
眉間に皺を寄せ頬杖をついた状態で男を見ながら言った俺の視界の隅に、堂本さんの笑い顔が映る。更に俺は眉を寄せ、視線を手の中のグラスに戻した。
「ペットって、なんだよ、それ。
堂本、何か吹き込んだのか?」
「別に。ただ、あなたは気に入られているようですね、大変ですね、ご愁傷様と」
笑いながら言う男の言葉に大きく溜息をつき「何が、ご愁傷様だ」と荻原は吐き出すように言った。
「こいつはな、かまわずにはいられなくなる奴なんだよ」
「確かに、そうですね」
「だろ? こいつに捕まった俺の方こそご愁傷様だ。しかも本人はそんな自分に全く気付いていないときている。俺ばかりが振り回されそうだぜ」
何を言っているんだ。振り回されているのはどこからどう見ても俺だろう。
…いや、もうそんな事はどうでもいい。荻原の行動に腹立たしいのも、彼のせいよりも、俺の中にある感情のためだ。
嫌なのは、この日常の変化だ。
俺に好意を持って執着する者がこの世にいるのだという事実が、今の俺には怖い。何も俺のことを知らない者が俺に執着する。今までなら、疎ましいだけで終われた。だが、もう俺はそうできる状況にはいないのだ。人の視線が怖い…。
遠くない未来も見ることが出来ない俺に向かってくる感情が怖くて仕方がない…。
一気にグラスに入った酒を体に流し込む。だが、喉はその行為に耐えられず悲鳴を上げる。激しく咳き込んだ俺の背に荻原の手が伸びてきた。
「大丈夫か?」
「……あぁ」
どうにか息を整え、体をずらして腕を遠退ける。その行動に彼は肩を竦めただけで何も言わなかった。俺の背を撫でていた手がグラスを口元に運ぶ。
咳き込んだせいか頭がクラクラし、急に酔いが回ってきたのがわかったが、俺は新しく酒を頼む。
「もう止めなきゃ、また寝るぞ」
「…そうなったら、放っておいてくれ」
「そんなこと出来るかよ」
「……あんたさ、社長さんなんだろう」
「ん? あぁ。信じてないのか?」
「そうじゃなく…、俺にかまっている暇はないだろう。もう、放っといてくれ…」
頼むから。そう付け足しそうになった言葉を俺は必死で飲み込んだ。惨めで仕方がなかった。悔しくて辛くて、腹が立って誰でも言いから突っかかりたくて、…悲しくて。その言葉を言えば、俺は泣いてしまいそうだった。恥も外見もなく、涙を流して懇願してしまいそうだった。
おかしくなってしまった感情でも、プライドは無なくならないのだろうか。
グラスを握り締めながら、ふと思いついた考えに声を上げて笑ってしまいそうになる。こんな俺が持つプライドなんてたかがしれているだろう。何を思われてもいいから、今は本気でこの場から立ち去るべきじゃないのか。まだ築きだしてもいないこの関係を終わらせるべきじゃないのか。彼に頼むのではなく、自分から断ち切るべきだろう。
だが、俺はそう願いつつも、自分ではそれを叶えることが出来ないということに気付き始めてもいる…。
「だから、放っとけないと言っているだろ。頭悪いな、覚えろよ。
第一、仕事はどうにでもなるからな。お前が心配することじゃない」
軽く頭を振りつつ荻原が溜息交じりに言う。その言葉に俺は反論しようとしたが、堂本さんが口を開いたことにより、外に出すタイミングを失い言葉は体の中に消える。
「私は心配していますよ。
どうにでもなると言うのなら、せめて段取りをつけてからにして欲しいですね。あなたが放り出した後片付けをさせられるのは私なんですからね」
「…いつも働いてるんだから、たまにはいいだろ」
「次からはきちんとお願いします」
「……。あぁ、そう言えばA大で川田さんに会ったよ。現場はきついと言っていたぞ。何か良い所を見つけてやってくれ」
「……わかりました。A大ということは…弓場さんのところですね。元気でしたか?」
「あぁ、久し振りに会ったがあのオヤジも老けたな。周りと上手くやっているようだが、あれじゃ仕事にならないだろうな」
二人の会話に、俺は眉を寄せた。
やはり荻原は仕事をサボって俺を振り回していたのだ。だが、それはどうでもいい。気になるのは会話の内容が俺の大学のことのようで、しかも彼らが関係しているような話なのだ。
堂本さんが言った弓場と言う名には覚えがある。そう、弓場は大学の警備を請け負っている会社だ。厚生課のアルバイト求人板に「学校から一番近いバイト先」と銘うって夜間の学内見回りの募集を出しているのをよく見かけるので、確かだ。
学校にやってきた荻原が言っていた、守衛が知り合いだから車を乗り入れることが出来たと言うのは本当だったのか……。
「…あんたの仕事って…なんだ?」
昨夜ははぐらかされて聞けなかった質問を繰り返した。
「ん? そうだな…」
少し考えるように首を傾げ、
「輸入業や金融、食べ物屋にコンピューター関係、遊楽施設にホテル。他は警備会社に、コンビニ。ま、大きく上げてそんなもんかな」
と、荻原は何でもない事のようにさらりと言った。
「…はぁ? …全部やっているのか?」
純粋に驚きそう言った俺に、「まさか」と笑う。…また、からかっているのか…。
「全部が全部俺がやっているわけないじゃないか。いくらなんでもそんな面倒なことはしないさ。
今のは、ま、俺が手を出したものだな。第一、全てグループにしてやっていたら税金ばかり取られるだけだろう。別会社として作って他の者にやらせているんだよ。俺とは無関係。
だから、今の俺の肩書きは確か、街の小さな本屋だ」
そう言って笑った荻原に、
「違いますよ、花屋ですよ」
と、堂本さんが訂正を加えた。顔を見合わせ二人が笑う。
(…どこからどこまでが本当なのか…)
「…手を出したって、…あんたが?」
「ん? あぁ」
「…父親の後を継いだとかじゃなく?」
普通なら常識や今まで彼の態度などから考えると、またからかわれているのだと、冗談だと思うのだが、何故か彼の言葉はそう感じなかった。酒であやふやになってきた頭にも、この目の前で笑う男は実はすごい奴なのか、と思い始める。
「それこそ、まさかだ。全部いちから俺が自分で創めたものだ。
確かに一人じゃ出来なかったからな、こいつや他の沢山の者の力を借りたさ」
「だが、それもあなたの力です。
この人だからこそ私も、他の者達も動いたんですよ。本当にすごい者ですよ、荻原仁一郎と言う男はね」
そういう堂本さんに「誉めても何もやらないぞ」と、荻原はクククと響く笑い声をもらした。
その声を聞きながら、俺は瞼が閉じていくのを止める事ができなかった。
26歳と言えば俺より5つ年上なだけだと言うのに、こうも違うものなのだろうか。見た目も性格もあまり変わらない、その辺にゴロゴロ居る若者だと思っていたがそうではない。きちんと自分の足で社会を渡り歩いている一人なのだ。
そんな者から見たら俺のようなやりたい事も見つからず、就職戦線に溢れ出している学生なんて子供でしかないのだろう。卑屈になっているわけではなく、純粋にそう思った。
そして、初めて荻原と言う一人の大人の男を意識した。
別に仕事が出来、部下の信頼も厚く、慕っている者達が多いだろう彼を羨ましいと思ったわけでも、自分がそうなりたいと思ったわけでもないが、一人の人間として少しの興味が湧いてきた。
何でも思い通りに楽しく生きているかのように見える彼には、この世界がどんなに見えるのだろうか。きっと俺には見えないものを彼は見ているのだろう、そんな気がした。それを知りたいと思った。
だが、同時にそれが怖くもあった――
そんなことを夢現の狭間で考えながら、俺はいつの間にかテーブルに突っ伏していた。携帯の着信音のピピピという冷たい音も、堂本さんの「失礼」と一言言って会話を始めたのも、水中の中で聞く音のようにとても遠かった。
次に聞こえてきたのは俺の名を呼ぶ、彼の声だった。
「おい、マサキ? 寝たのか?」
何故あんたに名前で呼ばれるんだ、と頭では思うが口には出来なかった。
「…寝たみたいですね。送りましょうか?」
いつの間に電話を終えたのか、堂本さんの声が流れ込んでくる。…意識が一瞬飛んだのか? ……そんなこと、どうでもいいか…。
「…いや…」
「駄目ですよ。田中さんの件はあなたが行かなくては」
「わかっている。
…直ぐに終わらせるから、こいつも連れて行く」
「そんなに気に入っているんですか」
軽い溜息の後、そう言って堂本さんは笑った。
荻原の「煩いな」と言う声は耳の傍で聞こえた。それと同時に体が浮く感じがしたが、その浮遊感とは逆に俺の意識は急降下していった。
2001/12/28