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 高級ホテルの最上階のバー。上の星は見えないが、下には星以上に輝くネオンが煌いている。こんな光でも、綺麗だと思ってしまうのはどうしてだろうか。この光の正体は、あのゴミゴミとした街だと俺は知っているのに…。全く人間なんていい加減なものだ。
 街の明かりから視線を上げる。漆黒の闇の空。その中に、ガラスが夜鏡となっておぼろげに店の中を浮かび上がらせていた。窓の外に目をやったままの俺の横顔を男は口元に笑みを浮かべて見ている。彼がふと視線を動かし外を見る。ガラスの中で交わる視線――
 不機嫌な俺を気にもせず、男は口の端を上げた。思わず眉を寄せた俺に、更にニヤリと笑う。
 注文をききに来たボーイに俺は男と同じ物を頼んだ。ジン・トニック。普段はあまり強い酒は飲まない。体調の問題もあるが、アルコールをさほどおいしいと思わないからだ。だが、ここまで来て、飲む飲まないで揉めたくはない。さっさと一杯飲んで引き上げるのが今はベストだ。それに何より、飲まずに入られない状況。そう、強い酒だろうとなんだろうといいさ、飲んでやる、と少しやけになっているのが自分でもわかる。だが、止められはしない。
 去っていくボーイの後ろ姿を何となく見ていた俺の耳に小さな笑い声が流れてきた。
「そう怒るなよ」
「……」
 この状況でそれは無理だ。無理やり連れて来られて怒らない奴が何処にいるというのだろうか。それに加え、怒る俺など気にもせず、いや、そんな俺を楽しそうに見て男は笑うのだ、余計に腹が立つのは仕方ないだろう。俺は聖人でもなんでもないのだから。
「折角、こんなに眺めのいい場所にいるんだから、楽しめよ」
 確かにそうだろう。貧乏学生には全く縁のない場所だ。次にこんな所にいつ来られるのか、そんなことがあるのかどうなのかわからないくらいだ。それこそこの男がいなければ、シャツにGパン姿の俺は入れてもらうことすら出来ないような店。
 そんな場所に来たのだ、満喫しなければ損だというのは一般的な意見だろう。
 だが、今の俺には楽しむことなんて無理だ。
(この男がいなければそれなりに満足できるだろうか? ――男を気にせず、この店を楽しむ?)
 男は黙り込む俺に肩を竦め、口の端を上げて笑う。俺の口からは、溜息が自然に零れる。
(……気にせずになんていられないよな…)
 そう、この男は気にせずにいられる人物ではない。そして、俺はそれができるほど脳天気ではない。それに――
 ボーイがやって来てグラスをおいて立ち去った。洗練された動きはとても自然で滑らかだが機械のようでもある。客との間に感情をもたないからだろうか。冷たいというのではなく、そこには居ないかのように感じる雰囲気。ここでは彼らは空気なのだ。自分を全く主張しない存在。
「ま、乾杯しようぜ」
 グラスを掲げる男に一瞥を送り、ゆっくりと俺もグラスに手を伸ばす。
「…そんな間柄じゃないだろう」
 そう言って、グラスに口を当てた。
 いい酒なのだろう。さらりとした喉越しなのに、からみつく、いや、染み込むような感じもする。きついばかりの安い酒では味わえない、口に広がる感触と風味。アルコールが強いのにそれを感じさせないまろやかさ。美味しいというのかどうかはやはりわからないが、これなら何杯飲んでも飽きないだろう。嫌いではない。
(いや、それこそ、こんな上等の酒を飲む機会なんて二度とないんだろうな…)
 そう、高い金を出してまで飲みたいとは思わない。酒は俺にとっては単なる逃げ場にしか過ぎないから…。
「ったく、この雰囲気でよくそこまで冷たくなれるな」
 言葉は怒っているようでもあるが、笑いながら言われては何の説得力もない。
 こんな場所だ、店の中にいる者達は皆、それなりの階級に属しているようなものばかりだろう。店内には邪魔にならない程度にピアノの生演奏が流れており、落ち着いた雰囲気のなか、何組かのカップルたちが囁きあい、ここでの時間を楽しんでいる。
 俺にとってはうそ臭いような、居心地の悪い雰囲気。
 そう、俺はこの目の前で笑う男が居なくとも、ここで他の者達のように楽しむことなんて出来ない。慣れないというのもあるだろうが、どちらかと言えば現実離れをした感覚に嫌悪すら感じる。現実を忘れたこの世界。それが良いと言う者もいるだろう。だが、俺はゴメンだ。俺の生きている場所はこんな所ではないだろう。高い場所から街を見下ろすのも、こんな店で酒を楽しむのも俺には何の魅力もない。
 この場から去りたい衝動が沸き起こる。それを抑えるように俺はグラスを煽った。
 ここに俺の居場所はない。だが、それは何処に行っても同じだ。何処に居ようと居場所なんて存在しないのだ。そのことを一番良くわかっているのは自分自身だろう。今更求めても遅いのだ。そう、今更――
 口に流し込んだ液体がじわりと体に染み込む。血液の流れを妙に感じる。アルコールが体を駆け巡る。
 いい酒は悪酔いしないと聞いたことがあるが本当なのだろうか。許容のアルコール量を超えると直ぐに眠ってしまう俺には関係ないのだろうが、ふとそんなことを思った。
 もし、それが本当なら、今はこんな酒ではなくいつも飲む安い酒を飲みたいものだ。今はこうして癒されるのではなく、心のままに狂いたい。自分自身を傷つけたい。
(俺はまだ、認めたくはないんだ……。こうして落ち着いてなんかいたくない…)
 心の暗い部分に沈みこみそうになった俺に、男が声をかけてきた。
「酒、飲めないんじゃなかったのか?」
 直ぐにグラスを空けた俺に苦笑しながら訊く。
「……飲めないと言っていない。飲まない、だ」
「ん?」
「あんたと飲む気はないと言う意味でいったんだよ。…だが、こうなれば飲まずにはいられないだろ」
「なんだ、それ? やけになるなよ」
 喉の奥でクククと実に楽しそうに笑う。その顔は満面の笑みと言うのだろうか、何がそんなに楽しいのかと思うほどの笑顔だ。
 自分のせいだとわかっているのか? と無邪気といえそうな笑いに眉を寄せたが、直ぐに思い直す。わかっていないわけがない。そう、無理やり自分のしたいように人を連れ回しているのだ。それが何故なのかはわからないが、本人は不機嫌な俺を気にせず満足している。人の迷惑なんて気にもせず自分一人が楽しんでいる、我が儘を言う子供と一緒なのだ。楽しく笑っても何らおかしくはない。
「ああ、そうだ」
 そう言い、男はポケットからアルミのケースを出し、中から小さな四角の紙を抜き取り俺に差し出した。
「荻原だ。荻原仁一郎」
「…要らない」
「ま、そういうなよ」
 手を出さない俺に苦笑し、ソファにもたれていた体を少し起こし、俺の前に名刺を置いた。
「いらないと断る奴なんて、初めてだぞ」
「…必要ないんだから、そうだろう」
「いや、俺の名刺は色々役に立つぞ。持っていて損はない」
 …なんの役に立つというのだろうか。自分の名刺をまるで自社製品を売り込むかのように言う。セールスマンか、この男は。
(…なら、悪徳セールス、だな)
 笑顔で欠陥商品を売りつける、それが似合っているな。と馬鹿すぎる考えが浮かぶ。
「……社長ってだけなんだろう」
「だけっていうなよ、だけって」
 酒を飲み干し、男は片手を軽くあげボーイを呼ぶ。
「お前は?」
「ん? あぁ、…頂きます」
 俺は酒には弱い。いや、弱いとはいえないかもしれない、それなりの量は飲める。だが、ある一定の量を超えるとすぐに眠ってしまうという癖があるのだ。
 それまでは自分ではわからないが、同席した者曰く、普通に見えるらしい。だがそれがかえって俺らしくないとのことだ。極端な風に言えば、冷たい奴が陽気になるといった感じだそうで、雰囲気が少し変わるらしい。普段の一線も二線も引いた冷たい感じが少し和らぎ、いつもなら冷めた視線で交わす会話にも真面目に答えたりするとのこと。「酔っ払っているようには見えないから性質が悪い、だがその方がまともに見えるからいいぞ」とまで言われている。
 だが、そう言われても自分以上に酔い騒ぐ奴らの言うことなのでそれも少々怪しい。しかし、眠ってしまうことも本当のことだし、自分でも少し饒舌になることにも気付いてはいる。ただ、あいつらが言うほど大袈裟なものだとは思っていないということだ。
 普段は酒を飲むと思考能力の低下を感じ、それが嫌で少したしなむ程度でしか飲まない。そう、眠ってしまうまで飲む事は全くといってない。一度、大学入学時に無理やり連れていかれたコンパで潰れてしまい、起きた時は知らない女性の部屋だったという失態をしてからは、外では極力飲まないようにしているし、抑えて気を使っている。
 だが、…今日は飲みたい。今はそれこそどうなるのかわからない状況、だが潰れるくらいに飲んでしまいたいと思っている。
 そう、もう、こう思ってしまう時点でヤバくなっているのかもしれない…。
「…社長さんね」
 前に置かれた名刺を手にとる。それには名前と携帯の番号しか書かれていなかった。
「…何、これ」
「プライベート用」
 ニヤリと男は笑う。
 俺は軽く息を吐き、運ばれてきたばかりのグラスを手に持ち、ソファに体を深くあずける。そのふんぞり返った姿勢で天井を見上げたまま男に訊く。
「何の仕事をしているんだ?」
「おっ? 興味を持ってくれたのか?」
 弾む声に一瞥を送る。いちいち癪に障る言い方をする。興味なんて持つわけがない。いや、聞きたくないと言うほどには関心を持っているのかもしれない。知れば深くなってしまうだろう、そんな関係は望んでいない、築きたくない。この男とはこのままで終りたい。
「…いや、あんたにじゃないよ。さっきの…山下? 彼の職業が気になるな」
 これも特に気になるというものではないが、あの男の職業が何なのか、少し興味がある。絶対に知りたいというわけではないのだが…。…考えがまとまらない……。
 矛盾しているぞ、と頭の中で自分自身を突っ込む俺に、
「…なんであいつだよ」
「…あんたのところで働いてるんだろ?」
 俺がそう言うと男・荻原は眉を寄せ、初めてその顔から笑みを消した。
 薄暗い店内。僅かな光を受けて輝く瞳がやけに鋭く見え、それまでの雰囲気を一瞬にして消し去った。その顔は優しさなんて全く持ち合わせていない、見る者に威圧感、恐怖を与えるものだった。
 本当に先程まで笑っていた者なのかと疑いたくなるようなキツさ。だが、その方があの山下と呼ばれた強面のオヤジや、車に乗っていたチンピラ風の若い男を使っている奴には合っている。
 俺はそんな彼に不思議と何の感情も湧かず、そんなことを思っていた。
「ああ。……気に入ったのか?」
 声のトーンは先程までと変わらない。それが余計に違和感がありすぎて、周りの空気が凍りつく、そんな感じがした。
 この男はなんなのだろうか…。笑っていた男が急にこうなったら、やはり普通は怖がるものなのだろう。戸惑ったりするのだろう。だが、今の俺にはそんな感情はない。恐れも驚きもなにも湧かない。むしろ、訳のわからない馬鹿な言葉を笑顔で言っている時よりは、まともだと思ってしまう。
「気に入った? はっ、まさか」
 俺は口を少し上げて、鼻で笑う。気に入るなんて何処から出てくる。
「少し気になっただけだ」
 その言葉に男は器用に片眉を上げた。
 視線を外さずに、俺はグラスに口をつける。ボーと見る俺を男は真っ直ぐ見返してきて、――ニヤリと口角をあげ、硬い表情を崩した。
「…ああ、なるほど。サラリーマンには見えないってか?」
「まともな労働者には見えないな」
「確かにね。あいつはどこからどう見ても堅気には見えないからなぁ」
 そう言って男は笑う。
 一体何なのか。今見せた冷たい雰囲気は綺麗に消え去っている。が、直ぐに考えるのを諦める。そんな事は無駄なのだ。
 それより…何の話だったか? そう、確か――
「……っで、仕事は?」
「俺はごくごくフツーの会社をしている。何のかはまだ、教えられないがな」
「…なぜ?」
 いや、そうではない。俺が訊いたのはこの男のではなく、あのオヤジのだ。ペースに乗せられているな、そう思ったが嫌な気はさほどしない。慣れてしまったか?
「それも秘密だな。もっと仲良くなってからな」
 なら、一生聞けないだろうな、と心の中で返事をする。仲良くなるなんてどうしてできるというのだ。そんな関係にはないだろう、別に彼が何の会社の社長だろうと俺には何ら影響はない。いや、これもこの男の単なる戯言だろう。なら、いちいち気にする必要はない。
「オイオイ、無視かよ? リアクションなしか」
「…何?」
「…いや、いい」
 お前に求めた俺が悪いってか、と肩を竦める。
(…訊いて欲しかったのか?)
 そう思ったが、まさかな、と考えるのを止める。そう、理解出来ないことに拘っていてはこの男との会話は先には進まない。
「…っで、あのオヤジは?」
「ったく。…なんであいつに拘るんだよ」
 はぁと溜息交じりに肩を落とし頭を軽く振る。リアクションが大袈裟だ。…いや、そんなことより、どうして拘る? …そんなこと俺が訊きたい。拘っているつもりはないのだが、…酒のせいだろう。どうでもいいことだと思いつつ。答えないので余計に気になってしまうというやつだ。そしてそんな自分に気付きつつ止められない。得られる答えなんてホントにどうでもいいんだが……。
「…山下は…そうだな、俺の運転手の一人みたいなもんだと思ってくれ」
「…運転手ね」
 予想通り、面白くとも何ともない答え。
 ガラの悪いあの男が、一応社長と呼ばれる者の運転手? それが事実なら、ますますこの男の正体がわからなくなる。だが、いくらなんでも、本当ではないだろう。それなりの地位にいるこの男が、あんな格好の者を運転手にするか? 答えはどう考えてもノーだろう。
(いや、運転手の一人、か。なら、…まともな奴もいるのかもしれないな…)
 だが、どう見てもヤクザにしか見えないオヤジだ、やはり嘘だろう。しかし、態々追求する気はない。答えたくないのであれば、無理に聞きだす必要は俺にはない。
 話に乗る気はないが、本当なら、と考えると…、
「…あの歳であんたの相手なんて嫌だろうな」
 と口から零れた。
 思ったことがすぐ口から出てしまうようになってきている。ヤバイのかもしれない。このまま飲み続ければ直ぐに潰れてしまうだろう。そうわかっているのに止められない。そう、この時点でもうかなりヤバイのだ。
「ん? あぁ、あいつは見た目より全然若いぞ」
「ん?」
 そうして聞いた答えは、酔った俺の聞き間違いではないのだとわかっても、すぐに理解できるものでもなかった。
「あんたよりも年下だよ。あれで二十歳。いや、21だったかな。そんなもんだ」
「……誰が」
「あいつ、山下だよ。あんたとぶつかった」
「……いくつだって?」
「21。見えないがな」
 運転手の次は、21歳ときたか…。
「…嘘ならもっとマシなものをつけよ」
「まさか、マジだぜ。後で本人にきいてみろよ」
「…マジねぇ」
「ああ。大マジ。俺も信じられんがな。ま、話せばバカな餓鬼だとわかるぜ」
 餓鬼かどうかはともかく、バカなのはわかっている。
 記憶の糸を辿り、山下の顔を思い出す。が、…とてもじゃないが俺と同じ年には見えない。俺も実年齢よりは上に見られるほうだが…比べ物にもならない。
(どう若くみても、三十半ばだぞ…)
「っで、横にいた男は若く見えるがオヤジで、あんたの秘書ってか?」
「あいつは見たまま、まだ22だよ。中身も同様、頭は空っぽだ。秘書なんかできるか。
 …って、お前、俺の言うこと信じていないんだろ?」
「信じられる要素が何処にある?」
「ったく、マジだって。それこそ騙す必要が何処にある」
 何を考えているかわからない奴がそれを言ってもどうにもならない。
「それより、お前は?」
「…ん? 何だ?」
「名刺、くれないのか? やりたくはないって?」
 それ以上彼についての会話はいい加減嫌になったのだろうか、話を俺に振ってきた。
「持っていない」
「何故?」
「…学生が持っていなくてもおかしくはないだろう」
「学生? …って、お前いくつだよ?」
「21」
 なんだよ、あいつと同じかよ、と男は呆れた顔で笑う。
「てっきり俺と変わらないぐらいの歳だと思った」
「…あんたいくつ?」
「もうすぐ27だ。
 お前もそれぐらいに見えるぞ」
 それは言い過ぎだ、21になったのも3月末生まれなので、まだ一ヶ月もたっていない。だが、実年齢より2、3歳上に見られるのは小さな頃からなので、仕方ないかとも思う。周りの者曰く、老けているというのではなく雰囲気が落ち着いているからそう見えるのだそうだが、自分自身ではわかるわけがない。
「21なら、4年か?」
「あぁ」
「どこの大学だよ?」
「…A大。就職も出来そうにない、今時の学生だよ」
「院にいくのか?」
「考えてないな」
「ま、今は院を出ようが、就職にはあまり関係ないからな」
 大変だよなと、全く大変ではなさそうに言う。
 実際、俺自身大変だとは思っていない。確かに就職難で、早い者なら3回生の頃から就職活動に励んでいる。そんな者から見れば、今何もやっていない俺は遅すぎるというものだろう。だが、大抵の者はそんなものだ。周りがのんびりしているというのもあるのかもしれないが、テレビで騒がれているように必死になって活動している者なんてさほどいない。何となく皆がするから、程度でしかしていない者ばかりだ。働かなければ生きていけないなんて概念は持ち合わせてはいない。
 4月になり、スーツ姿の学生も見掛けるようになってはきたが、やはり一部に過ぎない。その中には、パフォーマンスで着てきて授業を受けているだけの者までいるのだから。
「俺のトコに入らないか?」
「はあ?」
 笑う男に俺は思い切り眉を寄せた。
「お前になら、それこそ俺の秘書でもして欲しいな」
「……何言ってんだよ」
 何の会社かも言わずにそれを言うのか。…いや、だから戯言なのだ、これは。それに付き合う気は俺にはないのだが――
「いや、俺は本気だぞ。お前みたいな奴が近くにいたら、やる気も出るってな」
「何でだよ」
「そりゃ、綺麗なものがいる方が、仕事も楽しくなるだろ」
「……」
「一目ぼれってやつだな。気に入った」
 ニヤリと笑う男に、俺は大きな溜息をついた。酸素を思い切り吐き出したせいか、少し頭がクラつく。…一気に酔いが回った気がする…。
「……冗談言ってんじゃないぜ。あんた、頭おかしいぞ」
「…ホントに口悪いな。顔は飛び切りいいのに」
 その言葉にカチンとくる。
「あんたみたいな男前に言われたくない。嫌味だぜ」
「そうか? ま、確かに俺はかっこいいけど、お前とは種類が別だろう」
「…何の種類だよ」
「俺は男としてかっこいいってやつだよ。お前は綺麗ってやつだ。もちろん女の綺麗とは違うぜ。どこからどう見ても男でかっこいい。だが、どうも人間ぽくないというか、なんと言うか。中性的じゃなく、その逆で、どちらでもないって感じもするんだ。
 かっこいいより、やっぱり綺麗、だな。うん」
 一人で納得してんじゃない。言っている意味もわからないぞ、日本語か?
 俺には理解できないのに、一人自分の言葉に満足している男。…妙に苛立ってしまう。
「そんなもの聞きたくはない。二度と言うな」
「何故? 誉めてんだぞ、嬉しくないのか?」
「嬉しいわけがないだろう。どこがどう誉め言葉だ」
 グラスに残っていた液体を口に流し込む。…おかしい、味がしない。
「どこからどうきこうが誉め言葉だろ。綺麗っていわれりゃ、普通嬉しいだろう? 変わった奴だな」
 酒の味の事は直ぐに意識から消える。
 先程からなんてばかな会話をしているんだ、そう思うが止められない…。ヤバイぞと、頭で赤いランプが回っている気もするのだが…、
「男相手にそんなことを言うあんたの方が変わっている」
 つい言葉を返してしまう。
「お前、自分の顔嫌いなのか?」
「ああ、嫌いだね」
「勿体無い。醜男よりいいだろう」
 理解出来ないといった、そして少し残念そうな顔でそう言う男…。何が一体どう勿体無いんだ。醜男? 誰だ、それは。
「…さあ、なったことがないからわからない…」
「…考えたらわかるだろう。
 その顔だといいことばかりだろう? 違うのか?」
「はっ! まさか。嫌なことばかりさ」
 そう良いことなんて一つもない。
「そうか? 俺はこの顔で楽しくやっているけどな」
「それは顔がじゃないだろ、あんたの頭の軽ささ」
 そう、この男なら俺と同じ人生を歩いたとしても、俺のように全てを斜めからしか見ないようにはなっていないだろう。顔なんて関係ない、性格の違いだ。俺がどうしても否定してしまうことも、この男なら、笑って自分の好きにするのだろう。
 人生楽しく生きている、まさにそんな感じだ。そして、脳天気な馬鹿だというだけではなく、楽しむ力を、権力も持っている。
 俺とは何もかもが違う――
「軽さって…、お前俺を馬鹿だと思ってるのか?」
「さあな…」
「ったく、お前ってホント変だよな」
 俺をこんな風に扱う奴なんていなかったぞ、と苦笑する。
 変なのは目の前で笑うあんたの方だろう。自分よりおかしいと思う奴に変だと言われるのは気に入らない。だが、急激に襲ってきた睡魔に意識が奪われていき、言葉を返せない。
(…ヤバイ…)
 そんな状況にある俺には気付かず男は話し掛けてくる。
「なぁ、名前は?」
 名前? なまえは――
「…飯田」
「下は?」
「……真幸(マサキ)」
 どんな字書くんだ、と聞いてくる男の声がやけに遠くに聞こえて、意識は途切れた。



「…ん……」
 瞼越しに眩しい光が届き眉を寄せる。無意識の内に寝返りをうち光を避ける。
「…起きたのか?」
 囁く様な控えめな声が聞こえても、直ぐには反応できなかった。耳に届いた声…。
(声……誰の?)
 疑問符が浮かんでも、それ以上はどうすることも出来ず、そのまま再び眠りに落ちようとした。が、
「まだ、七時前だ。寝ていろよ」
 再び声がし、やっと違和感を感じた頭がゆっくりと動き出す。
(知らない声…)
 そういえばいつもと感じが違うなという思いに至った。自分を包むふとんの匂い、シーツの肌触り。何か、違う…。光――。…そう、何故顔に陽があたる? 俺の部屋では窓はベッドの足元で、顔まで朝日が届く事はまずない。それに、この雰囲気。…知らない場所だ。
 眠っていた感覚が起きだした時、突然誰かが自分に触れてきた。大きな手に髪をかきあげられる。
 ビクリと体が固まったのが自分でもわかった。驚きで見開いた目に最初に映ったのはその掌だった。飛び起きるという行動は忘れ去っていた。いや、覚えていても体は動かなかっただろう。俺はそのまま視線だけをゆっくり動かしてその人物を見る。
「…なっ……」
 その先には微笑んで俺の頭を撫でる男がいた。…俺とそう変わらない歳だろう。
 どこかで見たことがある。そう思うが思い出せない。あまりの驚きに頭が動かないのか…。
「おはよう。よく寝ていたな」
「俺は…」
「あぁ、酔いつぶれたんだよ。なかなか行ける口かと思ったらいきなり沈んでビックリした。面白いな、お前」
 何を言っているのだ。面白いわけがないだろう、と今の状況には何の役にも立たない返答が思い浮かんだが、口にはしない。いや、出来ないと言う方が正しいか…。
 驚く俺を他所に、ベッドの端に腰掛けた男はポンポンと俺の頭を軽く叩く。
「送ろうにも、家がわからないからな。仕方ないだろ、怒るなよ」
 そう言われ、眉間に皺を寄せ睨みあげていた自分に気づく。目を閉じ軽く息をつく。出来るならこのわけのわからない状況が消え去っていて欲しい、そう思いながら瞼を上げるが…、変わっているはずがない。
「…それより…あんた誰?」
「…大丈夫か? まだ寝ぼけているのか? イカニモ低血圧って感じだからな」
 苦笑交じりに言い、じっと顔を覗き込みにくる。
「…答えろよ」
「おいおい、マジかよ? 覚えてないのか?」
 そんなに酔っ払っていたのか? わからない酔い方する奴だな、と男は笑う。
 クククと独特の声の響き……、それでやっと思い出す。あの男なのだ。そう、昨夜だ。昨夜街中で俺はこいつに捕まったのだ。
 俺の頭の中で、スーツを着こなし、口の端をあげて笑う男と、学生にしか見えない目の前の男が一致する。
「…思い出した」
 そしてこの男に振り回されていたこともお思いだし、…出た声は低かった。そんな俺に気付いていないのか、気にしていないのか、嬉しそうに声を出す。
「本当か?」
 頷きながら体を起こす。
 男が誰なのかを思い出すのと同時に、思い出したくない別のことも頭に浮かび上がる。
 この男と出会ったのは現実にあったことだ。なら、あのことも…。昨日という日は実際にあったのだ。あの夢だと思いたい出来事は、…夢ではないのだ。
「どうした?」
「…いや」
 男が首を傾げ俯く俺の顔を覗き込む。
 荻原、…確かそんな名前だった。彼も起きたところなのだろう、昨夜のスーツ姿とは違い、Tシャツにスゥエットとラフすぎる格好、後ろに流していた髪は下ろしており、所々はねてもいる。
 そう、だからすぐにわからなかったのだ。こうしている彼は、街中で見る雰囲気とは違い、どこから見てもその辺にいる学生と言う感じしかしないのだ。首を傾げた様はとても27歳になる男には見えない。
「…髪…」
「ん?」
「下ろすと若く見えるな」
 俺がそう言うと、荻原は眉を寄せた。
「…言うな、気にしているんだ」
 そう言いベッドから立ち上がり、髪をかきあげる。その姿が妙に子供っぽくて可笑しい。
「気分は? 大丈夫か?」
「あぁ」
 体は問題ない。酒が翌日に残るという事は殆どない。眠るほど飲んでいるというのではなく、飲みすぎる前に寝てしまうというものなのだろう。今まで二日酔いになったことは一度もない。
 だが、気分としてはどうだろうか。
 昨夜会ったばかりの男の前で醜態をさらし、迷惑をかけるとは……。
「よし、なら飯にしよう。パンでいいよな?」
「…いや…」
「なんだ? ご飯党か?」
 最後まで口にする前にすかさずそう訊いてきた。
「生憎米がない。俺は朝は必ずパンだし、昼や夜はここでは全く食わないからな。うちに米は存在しないんだ」
「…いや、そうじゃない。パンもいらない、俺は食べないから気にしなくていい」
「ん? やっぱ二日酔いか?」
「いつも朝はあまり食べないんだよ」
 そう言った俺に男は眉を寄せ、溜息を吐く。
「マジかよ。何が信じられないって、食事を平気で抜く奴が信じられん。よくそれで生きているなっていうんだ。特に朝は食べなきゃやっていけないだろう。
 お前も食べろ、命令だ」
 そう言い、スタスタと出て行く男。俺の気分は沈んでいく。何が命令だ…。
 そう、あの男とはまともに会話は成立しないのだ。だから、昨夜もああなったのだ。そのことをすっかり忘れていた。なら、
(すぐに出て行くのは無理なのだろうか?)
 結果は目に見えている。知らず知らすに溜息を吐く。
 俺のささやかな望は叶えられそうにない……。

2001/11/14