3

 教壇の上でまるで実験用のせわしない鼠かのように動き回る若い助教授を見るともなしに眺める。
 マイクを片手に黒板に書く字はどれも配ったレジュメに書かれているので写す必要はない。時たま色付きチョークで書いた字をチェックするぐらいだ。
 暖かな春の日差しが窓際に座る俺の元に届く。もし、一人きりでこの場にいたのなら絶対に眠ってしまうだろう。そう思うほど教室内の温度はとても気持ちがいい。実際に午後一の授業だと言うこともあり眠りこけている生徒もちらほら居る。だが、この教室で眠れる者達なら、なにも春の陽気さのせいで眠っているのではないのだろう。そんな事は関係なくいつでもどこでも眠れる人種なのだと思う。周りに無頓着でなければここでは眠れないだろう。
 そう、大きな階段教室は本当に授業中なのかと思うほど煩かった。
 受講登録の最終日と言うこともあり、殆どの者が時間割表を広げ登録カードを書いている。この期間に見てきた授業の評価をそれぞれが交換し合い、騒ぎ合うグループばかりだ。本来この授業を受けるためにここに居るのだと言う当たり前なことを憶えている者はどのくらい居るのだろうか。騒がしい教室ではそんな疑問を持つ者すらいないのだろう。今ここにいる大多数の者は、この授業よりも受講登録の方が大切なのだ。
 授業を決める時最も重要なのは、その内容への興味でも、レベルの高さでもない。出席が重視されるかどうか、定期試験は持ち込みが可か不可かなど、要に単位がとりやすいかどうかだということだ。
 その点で言えば、この授業はかなり人気が高いものに入るだろう。
 500人程の生徒で席は殆ど埋め尽くされており、正確な出席をとるのは不可能だ。代返をしてもばれる事はまずない。授業は予め配られたレジュメを読み説明するというもので一切当てられることもない。何より多少煩くしても怒らない、遅刻も中途退出に関しても何も言わない。試験はレジュメの持込が可で、内容もそこからしか出ないという、生徒思いの授業。そんな点で人気を集めている。今日は受講登録日なので出席している生徒が多いが、来週からはこの半分もこないだろう。授業内容としてはさほど面白さがなく、役にも立ちそうにない内容だと判断されているのだ。友達グループの誰かを犠牲にしてレジュメを取らせておけば何の問題もないのだから、それは仕方がないのだろう。若い助教授もそんな事は全く気にせず。逆に「毎回授業に出る必要はない」と自ら言っているほどなのだから。
 マイクを通しての少し高めの特徴のある声は、騒ぐ者と同様、俺の耳を右から左に通り過ぎるばかりだ。
 鼠の動きから視線を外し光が差し込む窓を見上げる。僅かに見える空の雲は強い春風により見る見るうちに流されていく。教室の喧騒も俺の耳を通り過ぎるばかりで時を感じるものが無い中、その雲だけが生きている事を教えてくれる唯一のものかのようだ。
 風が吹いている。
 この世界は、動いている。
 そして、自分も――
 生きている限り、無になんてなれはしないだろう。それなのに自分はそうであるかのように錯覚してしまいそうになる。それをただの雲が、俺に現実を教える。

 不本意だが、あの男・荻原のことが頭から離れなかった。
 もう二度と会わないさと考えないようにすれば、…変わりに嫌なことを思い出してしまう。いや、嫌なことなんてものではない。発狂しそうなほどの恐れが俺に襲いかかってくる。それこそ考えてはいけないのだ、とその記憶に鍵をかける。考えれば俺はこの場で狂ってしまうだろうと。自分を守るために真実に蓋をする。そして、そうすればあの男が浮かび上がる。……朝からこの繰り返しだ。
 できるなら、あれは夢だったのだと思いたい。昨日の記憶を全てなくしたい。病院に行ったことも、告げられた現実も、その後彼に会ったことも、全てを忘れたい。
 自分に落ちてきた事実を思い出させるもの全てを忘れてしまいたい。
 だが、そんなことはできるはずがない。…わかっているのだ。…なのに、願わずにはいられない――
 人間なんて、弱いものだ。
 俺は目の前の現実に恐れ、目を瞑り見ないように足掻いているだけに過ぎない。そうわかりながら逃げようとするから、余計に深みにはまっていくのだ。見ようが見まいが、俺の前にその現実があることは変わらないというのに……。
 だが、どうすればいい?
 足掻くことしか出来ないのだ。素直に受け入れられるほど、俺は強くはない。逃げるしかないのだ――。逃げ切れないとわかっていても、…他に道がない……。
 無性に口の中が渇いていることに気付き机の上に置いていた缶コーヒーに手を伸ばす。買った時は熱かった缶もすでに冷たくなっていた。微妙なぬるさの液体を口に流し込む。缶を握る手が妙に汗ばんでいた。
 ゆっくりと、まるでそれが壊れそうなほど繊細なものかのように机に缶を置き、そろりと手を離す。細い溜息を吐き椅子に凭れ、シャツを握り締めた。震える腕を他人事のように見下ろす。
 口に含んだコーヒーが今ごろになって苦さを訴える。自然と眉がよるのが自分自身でもわかった。
 ふと、今朝あの男に無理やり飲まされた甘いコーヒーの味が蘇った。
 朝は食べないのだという俺に、「ならこれだけでも飲め」と差し出した褐色の液体。それは大きなオフホワイトのマグカップに入っていて、ゆうに300mlはありそうだった。それまで食べる食べないと揉めたことで疲れていた俺はそんなに飲めないと突き返す気力もなく、眉を寄せただけで素直に受け取った。
 が、口をつけて直ぐに後悔した。甘かったのだ。砂糖入りのコーヒーなんて、何年振りに口にしただろうか……。甘すぎというわけではなかったが、普段からブラックしか飲まない俺には、甘いコーヒーは正直、美味しくない。
 彼が朝からよく入るなと思うほどの量の朝食を摂っている前で、俺は一杯のコーヒーを弄んでいた。カップの中身はまだ半分も減ってはいない。
 そんな時電話が鳴った。
 まだ7時半にもなっていないという時刻なのにその電話は仕事の事のようで、しばらく話した後、男は「直ぐに行く」と通話を切った。
「悪いな、仕事だ。直ぐ出ないといけない」
 ったく人使いが荒い、と軽く肩を竦めたが、嫌そうな顔はしていない。日常茶飯事のことなのだろう。コーヒーを口に流し込み、リビングを出たかと思うと直ぐにネクタイを首に引っかけ、ベルトを通しながら戻ってきた。
「お前どうする?」
 どうすると言われても、帰るに決まっている。他に何があるというのか。
「今日は学校か?」
「…あぁ」
「だよな〜。家どこだ?」
「…なんで?」
「車で送らせるから」
「は?」
 何を言っているんだと思った時、今度は彼の携帯電話がなる。ディスプレイを眺め舌打ちしながらも出る。
「…あぁ、わかっている」
 話しながらネクタイを結ぶのはさすがに無理なのだろう。シャツのボタンを留め終え、首にネクタイをぶら下げたまま食事をした後の食器をシンクに運ぶ。
「……いや、直ぐに行くから、大人しくしていろ。
 ああ、わかっている。……そうだな、――いや、それはまだだ」
 内容がわかるような言葉は、俺が居るから気を使ってか、それとも普段からそんな受け答えをするのかわからないが、全く出てこない。だが、聞き耳をたてているというわけではないが、何か揉め事があったのだろうという事は感じ取れた。
 電話を切りズボンのポケットに携帯を入れる。そこから出たストラップがどこかで見かけたことがあるなと思い目を凝らす。確かゲームかなにかのキャラクターだ。とぼけた顔をしたネコが俺を見ていた。何となく理由も無く眉間に皺がよる。
 そんな俺には気付かず、悪態をつきながら男は俺に近付いてくる。
「…ったく、しつこいってんだよ。誰のせいだと思っているんだか。
 ――っと、じゃあ、俺は出るがお前はゆっくりしていけよ。ここは鍵をかけなくてもいいから、好きにしていろ」
「…いや、俺もすぐ出るよ」
 そう言って立ち上がったが、
「駄目だ、ちゃんとそれだけでも飲めよ」
 と、肩を抑えられ椅子に戻された。テーブルに置かれたコーヒーを顎で示す。
「もう…」
 いらない、と言う言葉を口に出す間もなく命令を繰り出す。
「飲め。飲むまで帰るなよ。朝は糖分を取らなきゃな、頭が上手く働かないんだぞ」
 だから砂糖入りなのか……。自然に口から溜息が出る。
 摂らなければならないのなら、別々に取りたかった。俺にとっては甘いコーヒーはコーヒーじゃない。体はそう判断し、受け付けないのだ。それこそ訳のわからない、ご飯にマヨネーズ、プリンに醤油と同じだ。理解できるか出来ないか。俺は理解も出来ないし受け入れられない。甘いコーヒーはそういうものだ。
 頭が働くからなんて理由でこんなものを飲みたくはない。飲むのなら頭が働かない方がましだ。
 だが、今の自分はこの男に意見はできない。そう、これを飲むのは彼と揉めないためだ。揉めるなら…不味いコーヒーを飲む方がマシ、だと思う。そう思うが…やはりキツイ……。
 冷めてしまい、甘さがましただろうカップの中身を恨めしそうに眺める俺に、彼は声をかけてきた。無視できず、振り向いてしまう自分がなんとも惨めに思える。
「……どうだ?」
 上着に袖を通し、ネクタイにかけていた指を外し訊いてくる。きちんとなっているか、歪んでいないかということなのだろう…。
「…自分で鏡でもみろよ」
 そう言葉にしたのに、
「いいって事か」
 と男は笑った。
 …確かにそうなのだが、…答えていないのに何故そうとるのか――。いちいちムカツク奴だ。
「よし、なら、いってきます」
「……」
「いってらっしゃい、くらい言えよ。今から社会と言う戦いの場に出ようとしている者に声ぐらいかけてくれてもいいんじゃないか?」
「……馬鹿言っていず、早く行けよ」
「はいはい。じゃあ、またな」
 そう言い後ろ手に手をヒラヒラと振り出て行く。すぐに玄関のドアが閉まる音が聞こえてきた。そのガチャリと言う音にホッとし、俺は息を大きく吐いた。
(また、なんて、あるわけがないだろう……)


「…飯田、ここいい?」
 そう言うと、返事をする前に声をかけてきた男は俺の隣に腰を降ろした。なかなか奇抜な格好の男が誰なのか一瞬わからず眉を寄せる。
「久し振りじゃん」
 丸い小さなサングラスを取りながら笑う男。
「…なんだ、香川か…」
 学籍番号が近い関係で、1回生の時に語学と体育が一緒だったのでよくつるんでいた内の一人だ。だが、学年が上がるにつれ見る回数は減っていった。今年になって会うのは初めてだ。
「ん? わかんなかった?」
「赤髪は初めてだな」
 確か前に会った時は濃青色で顔に掛かる長めの髪だった。今は短く無造作にはねたその髪は絵の具で塗ったかのような赤色だ。人の趣味に興味はないが、こういうのを見るとやはり頭のネジが数本抜けているのではないかと思ってしまう。何が一体楽しいのだろうか。
「なあそれよりさ、おまえいくつ取るの?」
 ルーズリーフの下に置いていた俺の登録カードを引き抜き眺める。
「マジかよ〜、5つだけかよ。これで単位足りるのか?」
「もう揃っている」
 そう返しながら、彼の手からカードを奪い自分の前に置く。
「マジ? なら、なんで取るんだよ。ゼミだけでいいじゃん」
「……」
「しかもさぁ、これって般教じゃん。単位揃った4回が取るもんじゃないだろ」
 1回の頃から受けてみたかったのだが、1回は体育、2回は語学、3回はゼミが重なって取れなかったのだ。今年やっと取れるというのに、他人にどうのこうのと言われたくはない。
「…別にいいだろ」
 第一、同じ授業料を払っているのだ、週一のゼミだけなんて勿体無いじゃないか。
「ま、そうだ。なあ、それより、この授業どう? 取りやすい?」
 俺の眉間の皺なんて気にもせず、シラバスを開き俺に向ける。そこは経済原論の授業に関する予定や講義内容などが書かれていた。
「…お前、原論まだとってないのかよ」
「別に必修じゃないだろ」
 そうだ、確かにそうだが、経済学部生なら殆どの者が取るものだ。それも、1、2回で取っておくのが当たり前となっているものだ。…取っていない方がおかしい。
「オレ、前期で揃うかどうかやばいくらいの単位なんだよな〜。泣きたいぜ、マジで」
 それは今まで怠けてきた自分が悪いのだろう。なにせ我大学は普通に取っていれば3回の前期で単位は揃ってしまうものなのだから……。受講しなかったのか、落としたのかは知らないが、同情する価値は全くない。それどころか、今までどんな取り方をしていたらそうなるのか、呆れるばかりだ。
「――原論、今年は竹本か…。また戻ったんだな」
「飯田、竹本の時取ったのか?」
「ああ、去年は確か…坂下だったよな」
「そうなんだよ! 坂下は楽だったんだとよ。いいよな〜、竹本評判悪いじゃん」
「そうか? 毎回の出席、レポートを出せば通るだろう。成績評価は厳しいけどな」
「厳しいね〜、…お前何点だった?」
 憶えているわけがないので成績表をファイルから取り出し広げると、香川が横から覗き込む。
「すげーとってんじゃん。余りまくってんじゃねーの?」
「…売るほどあるな」
「何、お前。首席狙い?」
「まさか……ああ、俺は原論は76点だな」
「飯田でBかよ。俺取れてもCだよな〜。この時間だと銀行論もあるんだけど…」
「…それよなら、原論の方がましだろう」
「やっぱそうだよな〜」
 その後もいくつかの講義について訊き、満足すると「サンキュー」と俺の肩を軽く叩き授業中だというのに堂々と階段を下り香川は教室を出ていった。
 扉に消えた香川の姿が直ぐに窓の外に現れる。俺に向かって手を上げニヤリと笑って去っていった。その後ろ姿が講義棟の中に消えていくのを何となく眺める。
 確実に単位が手に入るこの授業を彼が登録しない訳がない。だが、出る出ないはまた別の話だと言うことだ。彼はきっとこれから他の教室を回り知人を見つけては情報収集に精を出すのだろう。
 俺には真似出来ないし、したいとも思わない行為だが、そんなバカみたいな常識外れの行動を、何も感じず当たり前のようにとる彼を少し羨ましくも思ってしまう。



 荻原が出て行き、直ぐに自分も出て行こうと思ったが、なんだか一気に疲れを感じ動けなかった。俺はしばらく椅子に凭れ部屋を眺めていた。
 広い室内はダークトーンのシンプルな家具で統一され、落ち着いた雰囲気を持っていた。正直、あの男の部屋ならもっと散らかっているものかと思ったが、そんな様子は何処にも感じられなかった。俺が眠っていた部屋は今いるリビングを出て直ぐの所にあったので、廊下から少し内部を予想できる程度だったが、それでもここが広いであろう事は容易に想像が出来た。
(寂しくないのだろうか…)
 ふとそんなことが思い浮かんだ。この広い部屋に一人で居て不安にならないのだろうか、と。
 いつもの俺ならそんな事は思わなかっただろう。もし自分がこの部屋に住んでいたのなら、外界から遮断されたかのようなこの部屋に安らぎを感じるだろう。
 なのに、寂しくないのかと思ってしまったのは何故だろうか。
 男の口ぶりからもここが生活のための場ではないことが覗えた。ただの寝る場所なのだ。
 そんな中に、俺はこうして一人でいることが怖くなったのかもしれない。主の居ない部屋。そこに全く関係のない俺が居る。その思いが鼓動を速めた。
 …そう、寂しいのは、俺かもしれない……。
 一つ深呼吸をつき、ゆっくりと立ち上がる。まるで重力が高くなったかのように体が重い。冷めてしまい飲めなくなったコーヒーをキッチンに下げる。排水溝に流れ込む液体と一緒に、心のざわめきを消し去る。少し迷ったが、どうすればいいのかわからないので、男同様食器をそのまま放って部屋を後にした。
 向かった先の玄関にきちんと鏡があるのに気付き、少し眉を寄せる。やはり態々俺に訊かずとも良かったのだ。それに映った自分の顔から直ぐに目を背けた。鏡には今にも泣き出しそうな自分が居た……。
 扉のノブに手をかけ、深く息をする。
 「…大丈夫だ、大丈夫…」そんな意味のない子供だましの言葉で自分を誤魔化そうと、まるで呪文のように心で繰り返す。そう、俺は大丈夫なのだと。
 俺にとってはあまりにも突拍子もないことで、昨夜からの出来事は夢以上に現実感のないものだ。それは幸せな夢ではなく、苛つかせられるものだった。だが、今思えば、嫌なものでもなかった。一つの夢に過ぎない。
 そう、夢はいつか覚める。目覚めるのだ、現実に。
 夢の世界のこの部屋から、自分がいる本来の場所に戻るかのように、俺は小さな決意と共にノブを回した。大袈裟だろうが、そうしなければやっていけなかった。現実に戻ることも、そして、あの男に振り回されたという、苛立ちに対しても。
 もう、彼とは二度と会わないだろう。そう、昨日から続くのは、俺に落ちてきた恐怖のみ。男との関わりはもうこれで終わりなのだ。
 そうして外に出た俺は直ぐに驚きに見舞われる。
 出て来た部屋はワンフロアー丸々使ったものだったのだ。玄関の外は小さなエントランスになっていて、少し先にエレベーターの扉があった。広いとは思っていたが、この状況は予想していなかった。社長と確かに呼ばれていたが、あの若さ。しかも、その役職が似合う才能が到底あるとは思えないあの男が、こんなところに住んでいるとは…。――一体何者なのだろうかと、今更ながらに俺は思ってしまった。
 エレベーターの横に若い男が立っていた。…いや、若いというか、幼い。高校生ぐらいの少年と呼べる者だ。
 部屋から出て来た俺に頭を下げ、エレベーターのボタンを押す。開いた扉に「どうぞ」と促され、断る理由もないので乗りこむ。一体何なのか? その疑問は直ぐに解決した。少年がその容姿からは全く似合わない丁寧な物言いで俺に役目を言ったからだ。
「社長からご自宅までお送りするよう言い付かっております。私は樋口と言います」
 そう言い軽く頭を下げた少年に、俺は間抜けな声を上げた。
「……は?」
 ちょうどエレベーターが目的の場所につき、チンッとおかしな音を上げて止まり扉が開く。少年がドアを抑え俺を先に降ろす。そこは地下の駐車場だった。
「ご自宅はどちらでしょうか?」
 そこでようやく理解する。そう、車で送らせるとあの男が言っていたのはこのことなのだと。確かに他には考えようもない。だが、普通そんなことをするか? 俺の人生の中ではそんな考えは思いつかない。…一体どんな思考を持っているのか。俺にも、それを頼まれるこの少年にもそんなことは迷惑だとは考えつかないのか?
 だが、少年にとって彼は上司であり、雇い主の命令は絶対だという思い込みを持っているのか。それとも、何も考えていないのか。自分で帰ると言う俺に少年は全く取り合ってもくれず、結局俺は車に乗るしかなかった。
 運転をしているのだから18にはなっているのだろうし、こうしてきちんと仕事とは言い難いが上役の理不尽な命令を聞く社会人なのだから、少年と言うべきではないのかもしれない。実際に誰かの下で働いている者達からすれば、馬鹿な命令をきく彼をおかしいと思う俺の方が、この少年よりもまだまだ幼いのだというものなのかもしれない。
 だが、例え彼にとってはこれが大事な仕事だとしても、やはり俺は手なんて貸せない。幼かろうが、自己中心だろうが、自分の損になることなんてしたくない。まして、それがあの男に対してなら尚更だ。
 家まで送れといわれている彼は頑なにマンションの場所を聞いてきたが、俺も教えたくはないので、用事があるからと少々強引に駅で降ろしてもらった。車から降り、通勤ラッシュの駅で人ごみに紛れていると、ホッとした。日常が戻ってきた嬉しさ。…だがそれは長くは続かなかった。
 マンションの鍵を開け小さな部屋に入り込んだ途端、当たり前のように存在した日々が消え去る。そう、この部屋を出て学校に行き、馬鹿な者達と適当に過ごしてここに戻ってくる。そんな何の変化もない一日。いつまでも続くと思っていた俺の世界…。それが瞬時に消え去り、残ったのは心の中に大きく開いた空洞。それは光なんて全く知らない、闇――
 靴を脱ぎ上がった部屋。ベッドと小さな机。その上に乗ったノート型パソコン。壁のフックにかけたシャツ、床に積んだ本。テレビの上に載った小さな瓶。
 何もかも昨日の朝に出た時のままの状態。なのに、たった一日いなかっただけだというのに、なぜだかもう狭い部屋は自分の部屋ではないような気がした。
 直ぐに鞄に必要な物を詰め込み、学校に向かう。
 だが、行き着いたところにも居場所なんてなかった。
 俺は一体何をしているのだろうか…。
 この世に自分が居るべき場所だなんて思えるところは存在しない。誰もがそうだろう。疎外感を感じても、居られる場所で居るしかないのだ……。そう、例え、誰も俺の存在に気付かないような場所だとしても…、そこに居るしかないのだ――



「返却です。ありがとうございました」
 カウンターに本を出すと、定年前の優しそうな館長が微笑んだ。それに軽く頭を下げ閲覧コーナーに向かう。少し新聞を読んでいこうかと思ったのだ。だが、そちらに向きを変えて直ぐに呼び止められる。声をかけてきた小柄な男・芳賀が階段を小走りに駆け下り俺のところにやってくる。その後ろには芳賀の彼女がゆっくりと歩いてきている。俺はそれに眉を寄せたが気付くものは誰もいない。
「飯田、日本的経営論とっていたよな?」
「あぁ」
「もしかして、今返したのレポートに使った資料?」
 頷く俺に、「マジかよ〜」と喜びの声を上げカウンターに駆けていった。それに視線を送っていた俺に、やってきた彼の彼女は、
「馬鹿だよね、今日になってレポート思い出したのよ。明日提出なのにね〜」
 と、同意を求めるかのように言った。
「その点飯田君は偉いわね〜。もう書いたんでしょう。すごいわ〜」
「……」
 何がすごいのだろうか。提出前日ならやっていても驚くことでも何でもなく、当たり前だろう。
「あ、ねー。なら、飯田君今夜暇でしょ? みんなで飲むんだけどね、どう? おいでよ、ね」
「…芳賀は?」
「ん? 義人はいいのよ。きっとあの頭じゃ徹夜でレポートしなきゃ出来ないから。それより、ねぇ。どう?」
 俺より15センチ程低いところから見上げてくる彼女の真っ赤な唇が、暗い図書館の照明を受け異様に光る。まるで鮮血のように感じる赤…。
 正直、俺は彼女が苦手だ。会うたび芳賀には内緒だと何かと誘いをかけてくる。知り合いの彼女だとしか俺には認識はないのだが、彼女はそれ以上に俺に興味があるようだ。…俺にとってはどうでもいいことなのだが、それに気付くほど、彼女は他人に興味がないらしい。俺に何かと接触するのは、プライドからだろうか……。
「ねぇ、ダメ?」
 計算されたかのように微笑み首を傾げる姿、含む声……。
 普通の男なら、一般的に美人だと評価される女に微笑みを向けられたなら嫌な気はしないだろう。誘いにも乗るのだろう。だが、俺には何の魅力もない。男としておかしいのか、あるいは人間として感情が欠落しているのか。何も感じない。いや、鬱陶しいとさえ感じる。
 決して頷くことはない俺に、彼女は何を求めているのだろうか。ただ、ムキになっているだけなのか、それとも本気で関係を求めているのか、遊んでいるだけなのか――。何にしても、俺にはそれに乗る気はないし、義務もない。
 断ろうと俺が口を開きかけた時、突然体に重みがかかる。
「畜生、予約されていた。借りにくるまで貸してくれって言ったが、駄目だった」
 芳賀が俺の肩に手を置き凭れかかって来たのだ。
 当たり前だ。先程の館長なら手を打ってくれただろうが、今カウンターに座るあの中年女性の図書館秘書は頭が固すぎることで有名だ。それを知らないというだけで、ここをどれだけ利用していないかということが覗える。
「な〜、他に何かいい本ないかな?」
「自分で探せよ」
「…見てもわからん」
「義人、諦めたら?」
「何言ってんだよ、あの授業は田村の授業なの。ゼミ生は必修なの」
 さっきも言っただろうと芳賀は膨れ面を見せるが、彼女は全く気にした様子も見せず、「そうだっけ?」と相手にしない。
 そんな二人に付き合う気はなく、放って立ち去ろうかと思った時、
「あ、飯田君だ〜」
 と、声をかけられタイミングを逃す。
「何してるの?」
 同じゼミ生の久崎がやってきて、じゃれ合う恋人同士を見て俺に訊いてきた。いや、じゃれ合っているわけではなく、ただ、芳賀がちょっかいを出し、彼女にあしらわれているといった所か。そんな恋人同士には見えない二人のことを良く知っている彼女なら、この恋人達のことを尋ねたわけではなく、俺への質問だろう。
「いや、別に。本を返しにきただけ…」
 そう答えた俺の言葉を芳賀はきちんと聞いていたらしい。
「別にってないだろう〜。薄情な奴だな」
 と眉を下げて泣き顔を作る。その表情はとても二十歳を過ぎた男には見えない。
「なぁ、誰か僕のレポート助けてよ〜」
「あ、もしかして田村のやつ?」
「そう! 久崎さん、とってるの?」
 芳賀にとっての救世主はこんな所に居たらしい。
「うん、あれさ、題が2つあったでしょ。私、どっちもやらなきゃいけないと思って資料集めたんだけどね、片方でよかったんだよね〜。
 私メインバンクするから、コーポレート・ガバナンスのでいいなら資料あげようか? っと言っても、ネットで見つけたのをプリントアウトしただけのものなんだけどね」
 でも、これだけで十分書けるよ、と彼女が鞄から出したA4サイズのプリントを、芳賀は大袈裟なほど喜び恭しく受け取った。
「ねー、それより、今日の飲み会は飯田君出るの?」
「え? いや…」
「え〜、飯田君来ないの? つまんないよ〜」
「そうそう、飯田。来いよ、暇なんだろう」
「…お前も出るの?」
「当たり前。こいつが心配でレポートなんてしていられないよ」
 そう言って芳賀は彼女の頭に手を置いた。
「何よ、それ。心配って…」
「だってお前って放っといたらすぐ別の男に手を出しにいくだろ〜」
「いいじゃん、ちょっと遊ぶくらい。ね〜」
 と彼女さんは同意を求めるように言ったが……、俺にはそんなことわかるはずがない。久崎にいたっては、呆れたというか馬鹿にした表情で理解出来ないと眉を寄せた。
 そんな周りに気付かず、
「ね〜、飯田君も行こうよ〜。義人なんか放っといて、ね」
 と、スッと芳賀の側を離れ俺の腕に手を絡めてくる。
「おいおい、理恵〜」
 俺に凭れかかる彼女は情けない声を上げる彼氏を完全に無視し、行こうよと同じ言葉を繰り返す。
「何か用事があるの?」
「…いや、別に…」
「ならいいじゃん、行こうよ」
「理恵〜、僕の前で他の男といちゃつくなよ〜」
 そんなことを言っていないでさっさと彼女を俺から引き取って欲しい。他の男の腕にしがみついていると言うのに、笑っているな。危機感は全くないらしいのは、彼の性格だろうか? それとも相手が俺だからだろうか――。
 ぶら下がる感じで俺にしがみつく彼女に情けない声を上げつつ、普通に笑っている芳賀を思わず睨んでしまう。だが、気付くわけがない。似たものカップルというわけだ……。
「飯田君、頷くまで理恵離れないよ、きっと」
「もちろん!」
 ニコリと笑う彼女の笑顔に、俺は一気に疲れを覚える。
 軽く溜息をつき、俺の腕に掛かる彼女の手首に手を掛ける。抵抗しようとする彼女に、「放して」と声をかけると、しぶしぶながらもあっさり力を抜く。その彼女を芳賀に渡し、
「…で、何の集まり?」
「ん? あぁ、初めは4階研究室中心だったが…、もう適当になってわかんないなぁ」
 確かに、2階の研究室の芳賀が入るのだから区切りなんてないのだろう。仲間内か…。乗り気はしないが、…悪くはないかもしれない。
「ま、理恵じゃないが、来いよ。用ないんだろ?」
「…あぁ、そうだな」
 場所は? と訊こうとした時、
「悪い、駄目だ。こいつはこれから用があるんだ」
 と、後ろで声が上がった。
 聞き覚えのある声。だが、誰かと理解する前に勢いよく振り返ったそこには、
「…なっ……」
 今朝別れ、二度と会うことはないはずの人物、荻原が立っていた。
「ん? どうした?」
 驚きで目を見開く俺に、何でもないかのように声をかけてくる。
 嫌味なほどにブランドスーツを着こなしてはいるが、髪は纏めておらず、崩した様は、就職活動中の学生のようである。この男に笑顔を向けられれば、どの会社の面接官も好感を持つだろう。だがそんな微笑みも、俺にとっては何の効果もなく、むしろ怪しいものにさえ見える。
 どうしたではない。何故ここにいるんだ!? そう俺が口を開く前に後ろの者達が声をあげた。
「…飯田?」
「飯田君、…友達?」
 そう、一瞬忘れかけていたが、今俺が居るのは図書館なのだ。大声を上げていい場所じゃないだろう、と自分を落ち着けさせる。目の前で微笑む男から目を外し体を元に戻すと、三人が同じように俺の後ろの人物を眺めていた。女子二人が目に熱を持っているのはわかるが、何故芳賀が見惚れているんだか…。
「…いや、違う」
「違うってな〜、冷たいぞ」
 そう言いながら、クククと笑う。その声が耳につく。
 一歩前に出て俺の隣に並び、芳賀達に笑顔を向ける。
「君達、こいつの友達?」
「え、あ、はい」
「そう、悪いけどこいつこの後用があるから、今夜はパス。また、誘ってやって」
「あ、はい。
 えっと、……院生の方ですか?」
 芳賀の彼女が熱い視線で男を見上げ首を傾げる。その姿は俺に対しての計算されたようなものではなく、自然に取った行動のようである。彼女らしくないことに気付くのは俺だけのようで、久崎も芳賀も同じように男を見ていた。
 当の荻原はそんな彼らの視線を気にもせず、
「さて、どうだろう?」
 とニヤリと笑う。
(何をやっているのだか…)
 だが、俺には関係がない。いや、むしろ好都合だ。
「みんなは4回生? いいね〜、若くって」
 ニコニコ笑う男と彼に注目がいっている者。今の間に自分は立ち去るべきだ、と俺の頭は命令を出した。それに逆らう意志はない。体の向きをくるりと変え、俺は足早に玄関に向かった。いつもは気にもならない二重の自動ドアの反応がやけに遅く感じ、少々苛つきが生まれる。二つめの自動ドアをくぐった時後ろから芳賀に名前を呼ばれ、その憤りがピークに達したが、俺は足も止めずにその場を後にした。
 どうしてあの男が此処にいるのか。気になるところだが、気にして入られない。そんなことを気にしていたら俺は確実に捕まるだろう。そう、俺にも学習能力はある。昨日の二の舞になりたくなければさっさと逃げなければならないのだ。
 その思いで怒りを抑えひたむきに歩く。
 だが…。だが、もう遅いのかもしれない――。ここまで来た彼が、逃げる俺を捕まえないわけがない。
 そう判断する自分に余計に腹が立った。
 だから、
「…おい、待てよ」
 直ぐに追いついてきた男が俺の隣に並んでも、子供のように意地になって無視をし、歩調を弛めなかった。
「折角見つけたって言うのに、放っていくなよ」
「……」
「なんだ? 怒っているのか?」
「……」
「怒られるようなことは…していないだろ?」
 …そうだな。たしかに、これ程までに怒りを感じなければならないような事はされていない。そう、ただいきなり現れ、話に入ってきただけだ。それだけなのだ。
 だが、昨日の今日。いや、今朝だ。あんな事があった後で普通に接することなんて無理だろう? そう、この後の展開、また俺に何かしに来たんだろうと心が騒ぐ。そう思わずにはいられないようにしたのはこの男だ。
 もう二度と会わないだろうと思ったからこそ、昨夜のことも今朝のことも、思い出としての記憶なら我慢ができた。なのに、男は今ここに居るのだ。
 彼の存在しない、俺の平穏な日々の生活。いつもは気付かずとも、俺にとっては大事なもの。そんな中にこの男が侵入してきたのだ。それだけで、俺の心は騒ぎ出す。何かするんじゃないか、自分には理解出来ない行動をとられるのではないかと怯える心がある。だがそれより強いのは……。
 そう、理解出来ないからこそ起こる怒り。正にこれは怒りなのだ。目の前にいる時点でムカツク、というやつか…。
「…居るだけで気に入らない」
「何だよ、それ」
「言葉のとおりだ」
「ったく、折角会いにきたっていうのに、冷たすぎるぞ」
「煩い。…用件は、何だ」
 今朝の様子から、忙しい仕事をしているのだろうと予想がつく。なのに、なぜここに居るのか。何か俺に関係のあることがあったのかもしれないと思い訊ねたのだが、訊かなければよかったと直ぐに後悔をする答えが返ってきた。
「用がなければ会いにきちゃ駄目なのか?」
「…当たり前だろ」
「そうか? う〜ん、なら、お前の顔を見に」
 思わず立ち止まり隣を向くと、彼はニコリと笑っていた。
(……馬鹿だ…)
 絶対にこの男は馬鹿だ、と今更ながらに確認した。ここは学校だ、そんな理由ふらっと来る所でもなければ、彼自身そんなことが出来る立場でもないだろう。なにより、俺達はそんな関係ではない。
 知り合いともいえない、たった何時間か一緒に居たというだけだろう。その間に何かあったわけではない。会話も弾んだどころか、まともなことは喋っていない。なのに、何故ここに居るのだ。
 理解出来ないものに対しての恐ろしさというものが確かにこの男に対して存在する。だが、それと同時に、その怖さを忘れようとする心の自己防衛か、真実なんてどうでもいいことだ、と深く考えるなと感情を消し去ろうともする。
 そう、どうでもいいことだ。何故だろうと男は現にここに居る。その理由を訊いたが、まともに答えない。言いたくないのだろう。それが何故かとまでは考えず、言いたくないのだ、こちらも無理に訊く必要はないだろうというものに変える。そうすれば、そこで気持ちは止まる。何故言わないんだと、怒る必要はない。
「…そうか、ならもう見ただろ。帰れ」
 しかし荻原は、そう言った俺を無視して、訊きもしない事を話し出した。
「お前ってホント目立つのな〜、学校じゃ有名人じゃん。声かけた奴全員お前のことを知っていたぜ。何の授業を取っているのかも知れ渡ってるんだな。友達かと思って訊いたら、違う、本人と話したこともないだってさ。アイドル学生みたいだな」
 楽しそうにそう言って男は笑うが、俺にとっては笑うどころの話ではない。
「…あんた、訊きまわったのか?」
「まさか、数人だよ。三組目にして、「飯田君なら図書館にいると思いますよ、今さっき友達からメール来たから」だ。
 何だそれ、だよ。飯田発見、ってな感じで見たら報告しあうのか? ある意味怖いよな〜」
 ある意味ではなく、十分おかしい。なのに、俺の周りはそれに気付かない馬鹿な者達ばかりだ。いや、気が付いていても楽しければ何をやってもいいと思っているのかもしれない…。そんな周りを笑って気にせずにいるということは俺には出来ない。
 彼に図書館に俺がいると教えた者は、直ぐに今度は図書館にいる友達に、美形男が飯田を捜索中、とでもメールを送ったのだろう。そうしてその友達はあの光景を目撃しまた報告をする。――被害妄想ばかりの冗談ではなく、十分に考えられることだ。もしかしたら、荻原を追っかけてきたものもいるかもしれない……。
 人に関心が行かないのと、彼らの行動に眉を顰めるのとは話が別だ。俺は彼らの好奇な視線が嫌で仕方がない。単なる有名人かのように扱って騒いでいるだけなのかもしれないが、それでも俺はその視線が鬱陶しくて仕方がない。どうしてよく知りもしない他人にそんなに執着をするのか、興味を持つのか、わからない。自分にわからないその感情を含んだ視線が――嫌だというより、恐怖だ。まるでその視線は、俺を、俺という人間を否定するかのようで……。
「おまえってさ、可愛がられてんだな〜」
 思いをめぐらせていた俺は、しみじみと荻原が言った言葉を直ぐには理解できなかった。それはあまりにも突拍子もないことで…。
「――はぁ?」
「気に入られてんじゃん」
「……どこがだよ」
「ほら、さっきの友達達もさ、お前のこと大事にしてるだろう」
 何を言いたいのか全くわからない。眉間に皺を寄せる俺を見て、「気付いていないのか?」と笑う。気付くも何もない。
「反応の薄い奴なんてさ、普通面白くないのにかまわないぜ。そうだろう? だけど、お前はそんなとこも可愛がられてるんだよ。」
 …全くわからない。確かに、よく声をかけてくる者もいるが、圧倒的に眺める者ばかりの方が多い。俺にとっては苦痛以外の何でもない視線――
 何がどうなって、可愛がられているになるのだろうか。皆自分のメリットで動いているのだ。眺める者は自分の幻想のため、話し掛けてくる者も俺の何かを得るために。そうだろう? そんな中で可愛がるなんて存在しない。
「…そんなことはない」
 第一、そういうのなら何故この男は俺をかまうのだ。面白くないのなら放っとけばいい。からかうには度が過ぎているのではないか。まして、可愛がるなんて、そんなものは存在しない。
「そうか? お前が気付いていないだけだよ。ま、お前にしてみれば、かまってなんか欲しくない、放っといてくれなんだろうから、迷惑なだけかもしれないがな」
「……」
 一人で納得しクククと荻原が笑うその声が、何故だか癪に障る。一気に疲れが押し寄せた。放っといて欲しい俺の気持ちがわかるのなら、そうしてくれ、というものだ。それを知りながらのこの行動…、本当に俺の反応を楽しんでいるというのか? それこそ、まさかだ。奇行じみた行動をとる男に面白がられるほど、俺の行動は変ではない。いたって普通だ。
「…あんた、仕事中だろう? 帰れよ」
「仕事なんていいんだよ。それよりお前もう授業終ったんだろ?」
「……関係ないだろう」
「終わりなんだな。うん、ちょうどいい。一緒に帰ろうぜ」
 やはり俺の言うことは聞いていないようだ。関係ないといっているんだ、と反論する力は出てこない。何がちょうどいいだ。
「小学生じゃあるまいし、一緒に帰れるか」
「いいじゃん。あ、車はあっちだ」
 そう言い真っ直ぐいきかけた俺の腕を引き、校舎の裏に続く道に入っていく。
 車…。うちの学校は車の規制に厳しい。学生が乗り入れても絶対に入れてくれないし、部外者も簡単には入れず、書類を提出しなければならない。なのに…、
「…どうやって入ったんだ?」
「あぁ、守衛が知り合いなんで顔パスした」
 そんなわけがあるか。だが、訊きだすのも面倒くさい。俺には大したことではない。もっと重要なのは今の状況だ。
「…何処へ行くんだよ」
「駐車場だろ」
「…その後、だ」
「さぁ、何処へ行こうか?」
 ニヤリと笑う。
「お前の行きたいところに連れて行ってやるよ」
「…そう言うなら、放っておいてくれ」
「言っただろ。お前ってさ、放っとけなくてついかまいたくなる奴なんだって」
 そんなことを言うのはこの男ぐらいだ。
「……かまうなよ…」
「諦めろよ。
 それに俺に気に入られたんだ、光栄に思えよ」
 思えるはずがないだろう。
 流される俺も俺なのだが、どうもこの男とは何かが合わないのかなんなのか。調子が狂いっぱなしだ。
 沈み始めた太陽に、この状況をどうにか出来ないか、と問い掛けてみても、答えが返ってくるはずもなかった。

2001/12/14