14

 外にいる時は平気なのだ。いや、そう自分を騙しているのかもしれないが、人と話もできるし、動けもする。消し去ることはできないが、病気のことは頭の隅に追いやれる。
 だが、自分だけのテリトリーである部屋のドアを開けた瞬間、一気に絶望が押し寄せてくる。だから俺はここから遠ざかったのだ…。
 授業などで必要なものは荻原の部屋に移動してしまったが生活用品などはそのままなので、久し振りに訪れた部屋でも人が住んでいる気配が残っていた。
 だがそれは俺に苦しみを与えるものでしかない。自分の気配にあてられ、靴を脱ぐこともできず立ち尽くす。まるで変わらず家主を待ちつづけていたような部屋に心が痛む。
 俺がこの世からいなくなったとしても、この部屋はこうして誰かを迎えるのだろうか…。
 無意識のうちに後ずさろうとしたが、冷たい扉に阻まれる。それに凭れるように背中を押し付けズルズルと俺は座り込んだ。涙が溢れ部屋を滲ませる。嗚咽をかみ殺すように唇に歯を立てたが、それでも零れてしまう声を抑えようとする気にはなれなかった。手を動かす気力もなかった。

 俺はどうなるのだろうか…。
 死とは何なのだろうか。…わからない。なら、今この世に生きているとはどういうことなのだろうか。意味はあるのか。俺は本当に生きているのか…?
 頭の隅でそんなことを思う。だが、それは霞がかかった向こうの事で…。
 俺の内で大きな存在を示しているのは、理由も何もわからない、ただの悲しみだ。
 苦しい、辛い…、そう言ったものを遠くに置いてしまうくらいの、悲しみ。
 サラサラと何も感じないほど清んだ水の中に沈んでいっているようだ…。苦しくもないが、確実に溺れる場所に…。そこには何も存在しない。そんなところに俺は俺を持って沈み込む。俺が沈んだなら、その清んだ水は汚れるのだろうか。それとも、俺が水のように綺麗になれるのだろうか――。どちらにしろ、何も見えない、何も聞こえない。ただそこには、何も考えられないくらいの悲しみがあるだけ…。
 止まらない涙。…何故俺は泣くのだろうか。泣くことだけが許された唯一の事のように。悲しみが支配するこの体。なら、他に何も感じないのなら、泣く必要はない。これが当たり前…。
 なのに、涙が次から次へと溢れる。…感情で泣くのではないということだろうか…。
 壊れてしまったのだ、俺は。
 そう、役立たずなこの体は、俺の意思など関係なく好き勝手に動き出したのだ。
 小さな笑いが喉から漏れた。
 だが、涙は、止まらない…。

 どれくらいそうしていたのだろうか…。気付けば、小さな玄関に座り込み俺はぼんやりと狭い部屋を眺めていた。見慣れているようで知らないものかのようでもある、少し殺風景な部屋。その画像が段々とはっきり捉えられるようになってからも、直ぐには自分の状況が把握出来ない。
 凭れかかったドアから、微かに雨音が聞こえる…。
 ここは、俺の部屋。ここは、現実。
 いつの間にか、頬の涙は乾いていた。一生止まらないのかもしれないと思ったそれは、もう涸れ果てたのだろうか…。
 不自然な格好でいたからか、体が固まってしまっていた。ゆっくりと立ち上がると間接が軋み音を立てた。靴を脱ぎ足を踏み入れると、俺は直ぐに目的の物を手にとり踵を返した。何かに追われるように玄関を飛び出し鍵をかける。
 カチャリと響いた音になぜか安心し、俺の耳に再び雨音が入ってきた。
(…傘、忘れた……)
 梅雨入り宣言後に続いた晴天の分を取り返すかのように、雨は勢いよく降っていた。だが、もう一度この部屋に入る気にはなれなかった。
 傘も差さずにマンションを後にする。先程通ったときは全く濡れていなかった道にはもう小さな水溜りができていた。
 突然降り出した雨に濡れているのは俺一人ではなかったが、立ち止まり空を見上げているのは俺くらいだろう。歩道橋の淵にも垂れ、落ちてくる雨を俺は受け止めていた。
 俺の体は先程流した涙の変わりに、水分を吸収しようとしているのかもしれない。空から降りそそぐ水は、俺に潤いを与えてくれるだろうか…。それともまた、あの悲しみに囚われ涙を流させる準備をしているのだろうか…
 見下ろすと、水しぶきをあげ車が道路を行き交っていた。歩道はいくつもの傘の花で埋め尽くされている。店の窓がうっすらと白く曇っている。歩道橋を行き来する中の数人が俺に視線を向ける。
 だが、何もかもが曖昧で、…何も感じない、何も見えない。
 俺がここにいることは確かなのに、自分自身がそれを認めようとしない。
 水溜りに映った世界にいるようだ。人に踏まれるたび、空からの水滴を浮けるたび、風が吹くたび歪んでしまう世界。偽物でも本物でもない、ただの姿がそこにある…。
 髪が顔に張り付く。水分を含んだ服が体の熱を奪おうとする。
 濡れ鼠となった惨めな姿は、薄暗い雨の都会に埋もれるには汚れすぎていた。好奇心や不快感を表す人たちの視線は、降り注ぐ雨より冷たくて、体に突き刺さる。
 だが、その痛みを感じる事は、出来なかった。


 こうしている間にも俺は刻一刻と死に近付いている――
 身の毛のよだつ恐怖として感じることもあれば、諦めたように何も思えなくなることもある。
 そう。ただ、死に支配されるのだ。感情が壊れていく……。


「…おい、何してんだよ」
「――何って…?」
 言われて気付く。俺の腕には血が滲んでいた。無意識の内に爪を立て掻いていたらしい…。
「ったく痛くないのかよ」
 呆れた声が上から降ってくるが、俺の視線はその腕から離れない。
 滲む赤い血。幾つもある内出血。そして、細い白い腕……。
 自然に腕を掴む指に力が入る。細いとは言え、皮と骨だけではない証拠に爪が食くい込んでいく。指の関節が白く浮き上がる…。
「おいっ!」
 手首を掴まれ指を外される。腕には小さな爪の方が残っていた。そのいくつかがゆっくりと赤紫に滲んでいく。皮一枚隔てたところに溜まる血は、どこか滑稽だ。傍にある浮き出た緑の血管と違い、皮膚の模様であるかのように肌に馴染んでいる。
「…なに?」
 俺は腕を取った荻原を見上げた。
「何じゃない、触るな。このマゾ」
「…ん?」
 ソファに座ると言うか半分寝転ぶように凭れかかったままの姿勢で、俺は横に立つ荻原に首を少し傾げた。一体何を怒っているのか。俺を見下ろす顔は、珍しく不機嫌な色を出していた。いつでも笑っているのではと思ってしまうほどの男が、眉間に皺を寄せている。
「…なんだよ…」
 睨まれたら睨み返したくなるものだ。俺も同じように眉を寄せそう言いながら、掴まれた手を振りほどく。
「…ったく」
 大きな溜息を一つ吐き、荻原はキッチンに向かい、救急箱を持って戻ってきた。
 腕をとられ手当てをされるのを、俺は眉を寄せたまま他人事のように見ていた。
 血を綺麗に拭い、消毒をする。出血は小さな物で乾いており新たな血は出ない。だが、ぽつぽつと白い腕に残る内出血はどうにも出来ない。荻原はそれを何とかしようとするかのように、大きな掌で腕を優しく撫でた。しかし、当たり前だが消えることはない。
 それよりも、焼けた肌の下にある俺の腕の白さは異様で、何故だかドキリと胸が高鳴る。息があがる。軽く擦る荻原の掌が触れる部分が燃えるように熱く感じるのに、体から一気に熱が引く。ゾクリと背中が寒気を憶える。
 はっと我に返るように、俺は腕を引く。それに小さく苦笑しながら、荻原は救急箱に出した道具を片付けはじめた。
「……お前さ、ちゃんと病院に行ってるのか?」
「……」
「ちょっとおかしいぞ。精神安定剤でも貰ってこいよ」
 スーパーに行って大根を買って来い、といった感じで荻原が言う。だが、その目はいつになく真剣のような気がして……。
「…おかしいか?」
「あぁ」
「そうか……。ちょっと苛つくことがあっただけなんだが」
 体を起こし、手当てされた腕を捲れ上がっていたシャツを下ろして隠す。
「自分にあたるなよ」
「マゾだから仕方ないだろう」
「…ちゃんと聞いてたんじゃないか。…冗談だ、冗談」
「どうでもいい。何にしろ、俺は昔からこんな感じだ。だから、気にするな」
 軽く笑いながら肩を竦めると、「だろうな」と同じように荻原も笑い頷いた。その口実にあっさりと同意した事に俺は少し眉を寄せる。俺はそう神経質そうに見えるのだろうか…。
「だが、昔と今じゃ違うだろう。年をとったんだ、もっと自分を大事にすることを覚えろよ」
「…あんたは、大事にすると言うか、自分に甘そうだな。苛ついても周りにあたって処理するんだろう?」
 そう悪態をついた俺に、
「ったく。心配してやっているのに、なんて口の利き方だ」
 と、そう言いながらも荻原は楽しそうに笑った。その笑顔に何故かピリリと腕の傷が痺れを訴えた。
 不安定になっている。自分の心がおかしな程に下の方で足掻くかのように浮き沈みを繰り返している。
 いつまで続くのだろうか。他人事のように、荒れる感情に左右され踊らされながらそんなことを思う。そう客観的に見ていると思ったら、深みに囚われ動けなくなる事もしばしばで…。
 正直、そんな変化に疲れてきている。
 だが、それでも、人間は生きられるのだ。感情だけでは、簡単には死なない。



 忙しく昼も夜も働いている荻原にしては珍しく、平日の昼に仕事を終え、俺の前に現れた。
 数日振りに学校に出ていた俺は、学生会館に向かう途中の小さな藤棚の前でネクタイを外したスーツ姿の荻原に捕まった。大学のメインストリートなのでいつでも生徒が居る。そんなところで押し問答する気はサラサラなく、溜息一つで従う。
 きっと、無理に休みにして逃げてきたのだろう。いつの間にか荻原の行動に少しだが予想がつくようになった。多分、捕まらないように何らかの事をやって来ているはずだ。そんな男から俺が逃げられる可能性は極めて低い。
 日陰に止まった荻原の車の周りには、いつも彼に付き纏うように近くにいる者達の姿はなかった。その代わり、何を考えているのか、車の中には先客がいた。
「……俺にどうしろと…?」
 ナビシートに座っていたのは1メートルほどあるだろう大きなクマのぬいぐるみ。ご丁寧なことに、シートベルトまでかけられている。
「抱いてろよ」
「……」
「本気にとるな、冗談だ。後ろに放っといてくれ」
 ベルトを外すと、先に乗り込んだ荻原がクマを持ち上げ後ろに放る。
「ほら、乗れよ。
 あ。言っておくが、俺の趣味じゃないぞ」
 後部座席で寝転がるクマを顎で示しながら、「瞳に無理やり貰わされたんだよ」と軽い溜息を付いた。
「ったく、27の男にこんなものをやるなんて。どうかしてるな、あいつは」
「それを言うなら、あんたもだろう」
 いや、貰うのは仕方がないとして、仮に彼女に車に入れられたのだとしても、そのままにしておくのはどうかと思うのだが。擦れ違うものからすれば、それなりの車に乗ったいい男が隣にクマのぬいぐるみを乗せている、と言うのは怖すぎるだろう。
「乗せて置く事はないだろうに…」
 そう言った俺に、荻原はエンジンをかけながら、
「ん? クマに嫉妬か?」
 と、何処をどう取ったらそういう返答が出来るのかというものを返してきた。
「心配せずとも、別に俺は愛着持ってないぜ。だってクマだぞ、クマ」
「…別のものだったら嬉しいのかよ」
 ずれた会話に溜息を落とし思わずそう口にする。
「そうだな、あれだったら座らせてみたいかもな」
 アクセルを踏み車をスタートさせ、荻原は俺でも知っているようなキャクターの名前をいくつかあげた。
「…馬鹿だな」
「まあな。だが、面白いだろう?」
「怪しい、怖い」
「そうか? でも、ま、やっぱ乗せて楽しいのはお前だな」
 無口と言っても人形よりは喋るからな、と荻原は喉を鳴らした。

 荻原の取り留めのない会話に耳を傾けながら海に向かう。何故海なのか疑問だが、口にして聞く気もなく、俺はただ、窓を流れる景色をぼんやりと見ていた。
 前日の雨は去ったものの、まだ空には少し雨雲がかかっていた。雨の予想は出ておらず2、3日は晴れ間が続くそうだが、その後は梅雨らしい天気になるとのことだ。少し湿った風が窓から入り込む。
 意外なことだが、荻原の運転はとても丁寧だ。乗る度にそれを実感する。彼の性格を考えると、交通規則など無視した自分勝手な運転をしそうだなと思ってしまうのだが、今までに一度もそんな場面に遭遇したことはない。
 運転に性格はあまり関係ないのだろうか。ちらりと視線を向けると、サングラスの隙間から俺に見、口の端を上げてニヤリと笑った。…前を向いて置けよ、と眉を寄せ俺は視線を外す。
 どうやら、こうしてドライブをしているという事が嬉しくて仕方がないようだ。確かに、休んでいるのかと疑うほど働いているのでそれも仕方ないのだろうが、そんなことを言えば「お前が一緒だから嬉しいんだ」と軽口を叩くので、聞いて欲しそうに尻尾を振っていても気付かない振りをする。更に荻原のテンションをあげる気もなければ、そんな気力もない。
 少し酔ったかな、と息苦しさに大きく肩で息をつき、首を揉む。だが、酔いばかりではないのだと自分自身で気付いている体のだるさは、段々と酷くなっていく。
 乗り物に乗っているから余計にそうなのだろうか、胸がむかつき、意気が苦しくなる。
 どうにかやり過ごそうと、窓に頭を寄せ目を瞑る。大丈夫だと考える声よりも、鼓動の音の方が大きい。上手く息が継げない…。
 握り合わせて手が異様に冷たかった。だが、血の気の失った手を目をあけて確認する事は出来なかった。ただ、車の震動に身を固め、体だけではなく心も落ち着かせようと、それだけを考えていた。
 時折、微かにクラクションの音が聞こえたが、それも遠くの出来事だった。

 なので、声を掛けられても、直ぐには返事を返すことは出来なかった。
「着いたぞ、マサキ。…寝ているのか?」
 荻原の声が遠慮がちに窄められる。カチャリとシートベルトを外す音が耳に届く。
「マサキ…?」
「…ああ……」
「着いたぞ」
「ん…」
 目をあけると、体を捻って荻原が顔を覗き込んできていた。咄嗟に腕を動かし、それを制する。だが、動かしたその腕は重いというよりも、おかしな程に感覚がなかった。
「酔ったのか?」
「…いや、大丈夫だ」
「なら、降りようぜ」
 バタンと荻原が降り扉を閉めた音に押され、俺も扉に凭れかかるようにして降りる。足も腕同様、立っているという感覚が不鮮明だった。まるで痺れているかのように、自分のものではないような錯覚が起こる。
 それでも、何とか扉を閉める。だが、凭れた車から離れることが出来ない…。
「どうした?」
 近付いてきた荻原の気配を感じ俺は慌てるように無理やり体を動かした。
 だが、それがいけなかった。グラリと踏み出したはずの足は全く役には立たず、体がよろける。
(…ヤバイ――)
 そうわかってもどうすることも出来ない。傾く景色が色をなくす。とっさに荻原に凭れかかるように、伸ばした腕でその体にしがみ付いた。いや、受け止めさせたと言った方が正しいか……。
「な、なんだ?」
 突然の事に驚いた荻原の声が耳元で上がったが、それは酷く遠い感じがして……。
「おいおい。どうしたんだよ」
 少しおどけるように言う荻原に、いつものように言葉を吐く余裕はない。荻原が体勢を整えるために腕を体に回した。
「マサキ?」
 さすがにおかしいと気付いたのか、俺の体を支えながら顔を覗き込もうとする。だが、俺は荻原から離れない為に更に腕を回した。
 …きっと今俺は死人のような顔をしているだろう。それを見られたくなかった。
「気持ち悪いんだ…、少し、このまま――」
 このまま支えていてくれ、直ぐに良くなる。そう言うはずだった言葉は途中までしか言えなかった。
 完全に体の力が抜けるのを感じた瞬間、俺の全ては闇に包まれた。


 目覚めた時、最初に目に飛び込んできたのは荻原の顔だった。
 いや、それが彼だと認識するまでには少し時間が要った。俺は堤防に座る彼の足に頭を乗せ寝かされていたのだ。
 荻原は真っ直ぐ前を見ていたが、無意識の行動か、片手を俺の頭に乗せ髪を弄っていた。
 起きようと身動きした俺に気付き、視線を落とす。
「よう、大丈夫か?」
「……あぁ」
 ダルさがある体に力を入れ起き上がる。頭を離れた彼の手がなんだか名残おしく感じてしまう。そして、そんな自分に嫌悪が募る…。
「綺麗だぞ」
 そう言って荻原は再び前に視線を向けた。
 夕日が岬の向こうに沈もうとしていた。頭の上はまだ青空だが、それが段々と紫になり赤へ。小さな灯台のシルエットが目に焼きつく。
 冬ならば海に沈むのだろうか…。
 それを確認することは難しいだろうが、見てみたいと素直に望んだ。
 消えるわけではないが、卑屈な感情を一瞬だが忘れられるほど、それはとても綺麗だった。いや、綺麗と言うよりも、あるがままのその姿が、心に響いた。
 地球の回る速度は意外と速くて、見る見るうちに燃えるような紅い体を隠していく夕日。同じように紅く染まった雲が、空に浮かぶ。
 夕眺め…。隣の男はこの景色を見て、何を思うのだろうか。
 しばらく何も喋らず、俺達は沈む太陽を見ていた。
 
 大丈夫だ。自分にそう言い聞かせ口を開く。だがその声は少し擦れて弱々しかった。
「…悪い、迷惑かけたな」
「いや。大丈夫か?」
「あぁ。少し酔っただけだ。
 それで、急に外に出たから…貧血だよ」
「…ならいいが、…本当にもう大丈夫なのか?」
「あぁ。しつこいぞ」
「当たり前だ。いきなり倒れられたんだからな」
「…悪い」
「ちゃんと飯食わないから貧血になるんだぞ。ま、俺も行き成り付き合わせて悪かったな」
 波打ち際を一匹の大きな犬が走っていた。遠くに人影が見えるので散歩中なのだろう。犬が立ち止まり、やって来ない飼い主めがけて戻って行く姿を何となく視線で追いかける。
 何てことはない光景。なのに、現実味を掴めない…。
「…トイレ、行ってくる」
「ついて行こうか」
「馬鹿か。来るな」
「残念」
 そう言い肩を竦めながらニヤリと荻原は笑った。そのいつもの人をからかった笑いに俺はホッとした。
 だが。
 暗いトイレに入り込む。電気を点けるとこんな所にあるにしては小奇麗なトイレが浮かび上がる。だが、中の壁は沢山落書きがされていた。カラフルに描かれたサインや無意味な言葉が、今の俺には何かの妖しげな暗号のような記号に見え、気分が悪くなる…。頭が回る感じがする…。
 壁から視線を外し、洗面台の前に立つ。
 大きな鏡に映る俺の顔は、本当に死人のようだった。
(――最悪だ。倒れるなんて…)
 しかも、一人の時にではなく、どうして荻原といる時に……。
 恐怖が沸き起こる。何に対してだろうか。あのまま目覚めなかったらということか。それとも、彼にばれると言うことか…。目に映る俺の両手はおかしな程震えていた。
「クソッ!!」
 やり場の無い憤り。無駄だとわかりつつ壁に拳を叩きつける。何度も何度も…。赤くなった手は、不思議と痛みは感じられない。だが、ふと何をやっているんだと気付き振り下ろす腕を止める。
 ポケットに入れていた薬を取り出し口に含む。その途端に吐瀉感がこみ上げる。まるでそんなものを飲んでも無駄なのだと体が拒否しているかのよう…。口を手で抑え何とかやり過ごそうとする。冷や汗が全身に流れる。生理的に溢れた涙が頬を伝う。
 蛇口を捻ると勢いよく水が流れ、それと同時に我慢しきれず競りあがってきた胃液を吐き出す。まともに食べていないので、口から出たのは黄色い液体と、今飲んだはずの薬。
 口に広がった苦さが更に吐き気をもよおすが、出るのは少しの胃液だけ。
 肩で息を吐きながら口を濯ぐ。そして、深い呼吸を一つ吐いた後、再び薬を飲む。
(…消えてしまいたい)
 この世にしがみ付きながら、俺は今強くそう願っている。
 このまま何もかも全てなくなればいい。この苦しみがなくなるのなら、俺自身が消えることなど何でもない。そう、存在そのものが消えるとしても、俺は、今、この恐怖から逃げたいのだ――
 何度も考えては実行せずにきた思いが、段々と強くなっていっている。この思いにいつ捕まってしまうのだろうか。…遠い未来ではないよう気がする…。
 俺もう一度拳を強く壁に叩きつけた。
 止めてくれる何かを願っているのか、背中を押してくれる何かを求めているのか…。どちらを望んでいるのか、俺自身にもわからない。言える事は、何でもいいからこの苦しみを取り除いて欲しい、ただそれだけだった。



「――なあ、マサキ…」
 前を向いたまま話し掛けてきた荻原に、俺は返事は返さず外を見ていた視線を向けた。
 トイレから戻った俺を待っていた荻原は何も言わず、沈みきった太陽が残した光も消え、空に夜の帳が降りはじめたころ、「帰るか」と堤防から飛び下りた。
 夕闇が包む周りの空気は、都会では味わえない凛とした、それでいて淋しさを持つものだった。もし、ここに一人でいたならば、月が出るまでに思いに耐えられなくなっていただかもしれないと思うほど、心が濡れる夕闇…。
 途中で小さなレストランに寄ったが、俺の食欲は相変わらずで、荻原もそれがうつったかのように珍しく食は進んでいなかった。
 帰路への車内はとても静かだった。気まずい雰囲気は何もない、ただの静寂。だが、それでも俺に後ろめたい気があるからか、なんとも表現しきれない緊張があるようにも感じた。
 それを先に破ったのは荻原だった。話し掛けてきた荻原の声はいつもと何も変わらなかった。
「真面目に聞かなくても言い。戯言だ」
「…いつもだろう…」
「そうだな。お前にとってはそうか…」
「…何だよ」
 荻原から視線を外し、俺も同じように前を見る。
 前を走る車がハザードランプを付け左の斜線に移る。その横を、駆け抜けると直ぐにドライブインの光が迫り、そして通り過ぎた。
「…俺は親父が大嫌いだった」
 何の話しをするのかと思えば、荻原は何の脈略も無いことを話し始めた。
「親父はなかなか大きな組の組長だった。ヤクザってだけで嫌うには十分の理由だ。だが、正直、そんな事はあまり関係なく、親父そのものを嫌っていた。何をそんなに嫌うのか自分でもわからないが、…一種の反抗期の餓鬼のようだな。何もかもが嫌だった」
 人に執着出来ない、そう言った男は、特別に人に嫌悪も感じないのではないかと、俺は何故かそう思い込んでいた。そんな感じが否めなかった。だから、荻原の発言は俺には少し意外なものだった。
 嫌いとはどういうことなのだろうか。ふとそんなことを考える。
 嫌いと言い切るほどの強い感情…。それは、執着と言えるのだろうか…?
 視線だけを動かし俺は荻原を見た。だが、放った言葉とは裏腹に、いつもと何も変わらない表情だった。
「だが、俺は親父にとってはいい息子だった。
 逆らっていては生きていけないからな。別に怯えとかじゃなく、態々反抗するのも面倒だったんだよ。親父の仕事に興味をもってそれをサポートする、そんな息子を演じていたから、嫌われているなどあいつはは思いもしなかっただろうな」
 ま、実際、俺も楽しんで仕事をしていたんだが。軽く笑いながらアクセルを踏み、追い越し斜線を使い数台の車を抜く。
「俺が高校に入った頃から暴対が言われだし、経済ヤクザが増え始めた。その例にもれずと言うか、俺もその波に乗って色々やり始めた。親父は好き勝手にさせてくれたよ。それなりに稼ぐし、何より、そう小難しい事はあいつの頭じゃ処理出来ないから、いまいちわかっていなかったみたいだ。
 俺には目的があった。親父を、組を潰す。それをするには、まず、組長の息子と言う立場ではなく、俺という人間の立場を確立しなければならないからな。どんどん事業を進めていったよ、そう、それしか見えていないくらいに真っ直ぐとな。
 そんな俺にずっと反対していたのは堂本だ。俺が何を企んでいるのか気付いた時、当たり前のように止めようとした。だが、俺は耳を貸さなかった。
 学生の頃だ、やっと親父を落としてやる、その計画の実行が見え始めた頃、あいつはあっさりと死んだよ。心筋梗塞、笑えないね。
 その後、俺は組を解体した。極道として生きたい奴らは他の所に面倒見てもらい、俺の方針で堅気まがいの事をして行くことが出来る奴らは全て引き受けた。
 知ってるか? 服役中のヤクザに、組に戻りたいかと聞けば半分は組を抜けたいと言うだ。だが、実際は抜けられない。また戻るのがオチだ。
 無条件で組を抜けられ、しかもその後の仕事もきちんとある。ヤクザに執着する必要はない、っていうもんだよな。殆どの組員が俺についてきたよ。
 所詮ヤクザはどうなろうとヤクザだ。やめても普通になんて生きられない。まさに、あいつらにとっちゃ、俺についてくるのは当然だ。理想そのものってか」
 そう言った荻原は、
「…何て言ったら、俺は間違いなくヤられるな」
 と笑った。
「あいつらは単純なりに色々考えている。理屈じゃ通らない気持ちを持っている。人間なんだからな。
 堅気の真似事をするのに苦しんだはずだ。死後とはいえ、親父の組をあっさりと潰した俺みたいな餓鬼に憤りを感じなかったわけじゃないだろう。今も、自分の選択を迷っているかもしれない」
「…なら、彼等は何故…」
 荻原の言うこともわかるが、俺が見る限り、荻原は部下達に慕われている。いや、それ以上に忠誠心や、恐れといったものの方が大きいのかもしれないが、決して嫌々ながら、上司に反抗できずに理不尽な仕事を任されているサラリーマンのようではない。自分の信念を持って、荻原に仕えている、そんな感じだ。
「…さあな。俺の魅力、だけではないな。確かに俺はそれだけの力を持っているが、一癖も二癖もあるあいつらを全員惹き付けらせるほどのものじゃないぞ。そんな何かの宗教の教祖ほど妖しくないだろ。あいつらにも思うところがあるんだろう」
「……」
「そして、俺にもな。
 自分のしてきたことを正当化しようというわけじゃない。だけど、あの時はああするしかなかったと思ってやってきたことだが、…正直後悔している事もある」
「組を、潰したことか…?」
「…それだけじゃない、色々あるさ。
 だが、それを見止めていたら、前に進めなくなる。
 俺は今、何人もの人間の面倒を見ている。止まるわけには行かない。
 傷なんて言うほどのものじゃないだろうが、俺はその痕を抱えていると思う。だからこそ前を向ける」
「…傷…?」
「そう、人はそれぞれ、他人には見えない場所に傷を持っている。
 それは他人から見れば小さな物だったり、嫌な物だったり、見止めるようなものではないのかもしれない、色々な傷だろう。
 血を流し苦しむ者もいれば、自ら更に傷つける者、見えない振りをする者、傷をすっと見続けて動けない者もいる。
 だが、それが人間だろう。
 そういう物を抱えているからこそ、一人ずつが違う生き物なんだ。その傷がそいつと言う人物を表す。傷が癒えて真新しい物になっては、いつまでも人は大きくならない、成長しない。面白くないだろう、そんなのは。
 だから、傷を癒す必要はない。受け入れろ。傷痕なんて気にするな、だ。俺はそうやって生きてきた」
「……俺はそう思えるほど、強い人間じゃないな…」
「強い弱いじゃない。それを言うなら俺だって強くはない。お前の方が強いと思うぞ」
「…俺が…?」
「お前は怒るだろうが…。綺麗なんだよ、綺麗過ぎる」
「……」
「顔がじゃないぞ。いや、顔もだがな」
 荻原のいつもの軽口を、窓の外に顔を向けて流す。
「何だかんだと言ってもお前は純粋なんだよ。
 強くなければそんなものは持てないさ。この世は綺麗なものばかりじゃない。その中で綺麗なままで生きているお前は強いよ。
 俺は周りの人間を使って、自分がこけないように固めまくっているだけだ。強くはない。弱いというより、卑怯な奴だな」
「…どこがだよ。それがあんたの強さだろう。持っている力だ。
 俺は、あんたが言うような純粋なんかじゃない。…汚い、醜い面ばかりだ」
「……それを自分で気付ける、それも強さだ」
「なら、あんただってそうだろう。俺は気付いても何も出来ない」
「俺は気付いている振りをしているだけだ。否定もしないが、特に受け入れもしない。何もしない」
「……」
「もちろんお前は綺麗なだけじゃない。綺麗なだけなら、つまらない。汚れた部分もあるからこそ俺は惹かれたんだよ。それはお前の力だろう」
 ハンドルを切りながら、荻原は当然の事のようにはっきりとそう口にする。
 月が車を追いかけてきていた。
 長い間左手に上がっていた月が、カーブを曲がりきると真正面に姿を見せる。まだ、上がりきってはいない僅かに欠けた月。これから更に欠けゆくのだろう。紅く見えるのは汚れた空気のせいだというのに、その姿は綺麗だった。
 綺麗とは、こういうことを言うのだ。ありのままの姿が心に響くようなもののことを綺麗だと言うのだ。醜い心ばかりでそれに支配されかけた俺のような者を、決してそう呼びはしない。汚れは汚れでしかない。
「…そう言うのはあんただけだ」
「そうかな、違うと思うぞ。周りの奴らは気付いているさ。
 だが、…お前はそう思っていろよ。俺を一番意識していろ」
「何故そうなる…」
「好きな奴に好きになってもらいたいというのは当然だろう。だが、生憎お前は素直に俺の事を好きになってくれそうにない。
 だから、今は見止められる存在でいることで良しとするよ」
 今後の事はわからないがな。そう言ってクククと喉を鳴らして荻原は笑った。
 またかよ。そう思う気持ちの方が大きく、俺の口からは溜息が漏れたが、心のどこかでは慰めてくれているのだろうか、とも思った。
 荻原にすれば、何に苦しんでいるのかわからないだろうが、それでも目の前で荒れる俺に聞きたいことの一つや二つあるだろう、見るだけなのは苛立つことだろう。
 なのに、荻原は何も聞かない。追求しない…。
 俺の事はどうでもいい、ということはないだろう。こうして、遠回りながらも、何かを苦しんでいる俺に少しでも助けになればと考えているからこそ、こんな話しをしてきたのだろう。気にするなと、俺に言おうとしているのだろう。
 はっきりと口にしないのは、聞けないからか、それとも、俺から話すのを望んでいるのか……。どちらにしろ、俺が荻原を苦しめていることに変わりないのかもしれない…。そう、俺は迷惑ばかりをかけている。なのに、この男は何も言わずそれを受け取り、更に手を差し伸べる…。そう、先日と同じように。
 山下を殴ったあの時と同じように、さり気無く気遣ってくれているのだ。俺を…。
 以前なら絶対にそんなことには気付きもしなかっただろう。だが、今はこの思いはそう的外れでもないように思う。自分に都合よく考えてしまっているのかもしれないが、それでも、荻原の言葉が心にしみるのは事実だ。
 だが、俺はその差し伸べられる手を、…握り返せない。
 今は、その言葉だけで十分だ。…まだ、それに素直に頷けない俺がいるのも事実だから…。
 そう、この優しさが苦痛でしかないと感じる俺が確かにいる。
 自分の痛みが荻原によって楽になれば、今度は、その荻原を苦しめている事実に気付かされるのだ。
 俺は傷つけられてばかりなのだと錯覚していたのかもしれない。
 …被害者ではない、俺が加害者なのだ。
 俺が周りを傷つけているのだ……。

2002/05/26