19
堂本さんの前で流した涙は、悲しいからでも、寂しいからでも、まして辛いからでもなく…。あの時は何故泣くのかはわからなかったが、後になって思えば、ただの涙でしかなかったのだろうと思う。
感情を伴って涙を流すのは人間ぐらいなものだと訊いた事がある。だが、あの時は、そう言ったものはなく、ただ強いて言えば体が潤いを欲して涙を出させたように思う。
自分自身を癒せる雫。
心はとても静かで、全てが時に溶けそうなほど自身が無になったように感じた。
それは、怯える必要のない、逆に俺にとっては心地よいものだった。
目を閉じると、真っ白な世界にいけるような。それでいて、この世界の全てが見えるような、そんな感じがした。
自身は何一つ変わっていないのに、何故かそんな力が自分の中に存在するかのような錯覚が起こった。
俺の様子に戸惑いを見せる堂本さんには悪いが、そんな風に感じる自分がおかしくて、笑った。
その後、荻原の病室に行くと、何かいい事があったのかとからかわれた。それに答える前に、瞳さんが見舞いにやって来て、散々荻原にグチを言い帰っていった。答えを返すのを忘れたと気付いたのは、病院を後にしてからだった。
いい事があったというのだろうか、これは。
もしそうだとしても、それはとても些細な事で、上手く口には出来ないもの。
ずっと鳴り響いていたもう一人の自分の声が聞こえなくなった。
目の前にある道を見つけられた。
俺がつけてきた足跡が、まだ消えずに残っているのだと気付いた。
言葉にしても、他人が聞けば首を傾げるもの。だが、俺にとっては意味を持つもの。
こう言う言い方は、少し違うのかもしれないが…。
楽になったのだ、今を生きると言う事が。
散々悩み苦しんできた現実。その中を生きるのがとても気分のいいものとなった。
楽しいかなんてわからない、本当はもっとベストな生き方があるのかもしれない。だが、ただ、生きる。それが今俺の中で初めて意味を持った気がする。もちろん、いい意味で。
そう、やはり、楽になったのだ。
心も体も。
「最近なんだか気分がいいんです」
そう話し出した俺の話を、柿本医師と菊地さんは黙って聞いてくれた。
よくこんなにも我が儘な俺のような患者に付き合うものだ、と他人事のように思ってしまう。それくらいに彼らは本当に良くしてくれた。
「…そう、わかった。紹介状を書こう。場所をとわなければ直ぐに見つけられるよ」
話し終えた俺に菊地さんはそう言った。
逆に、お願いしますと頭を下げた俺に、柿本医師は小さな溜息を落とした。
「…君は本当にそれでいいのかい?」
辛そうな目。以前なら鬱陶しいと眉を顰めていただろうが、今はそれはこの医師の優しさなのだとわかる。
「えぇ、いいんです。
前は…苦しくて、辛くて仕方がなかった。だが、今は何故かとても心が穏やかなんです。死を受け入れたというほど大層なものではないですけど、何となく、自然なものだと思えるようになったんです」
死を迎えるのは確かに今もまだ怖いというもの。だが、その怖さは絶望ではなく、寂しいと思えるものなのだ。上手くは言えないが、死が全ての終わりなのだと感じるものだけではなくなったのだ。
確かに、死は俺自身には終わりを告げるものでしかない。だが、俺と言う人間は一人で生きてきたわけではなく、こうして、例え薄れていくとしても覚えていてくれる者がいる。俺が存在したという事実は残る。
以前はそれが怖かったが、今はそれに救われているように思う。そう、終わるのではなく、ただ見えなくなるだけ、消えるだけなのだと。生きていた時を否定されるわけでも、無駄なものとなかった事にされるのでもない。俺と言う存在は確かにいたのだと…。
それを実感すると、今の延長線上にある死が人間には必要なものに思えてきた。
俺自身、どうしてそれがこんなにも早いのだろうかと辛くなるが、こんなものなのだろうと納得する面もある。
やりたい事も、見たい夢も沢山ある。だが、それはもうとても静かなものとなった。
望めばいいのだ、いつまでも。それが叶う事はないとわかっていても、望めば心が救われる。叶わない事に嘆くよりも、ただ夢見ていればいい。
死を前にしなくとも、人はそれを知っているのだろう。俺の場合は今になってからしか気付かなかったが、皆口にしなくとも、それを知っているからこそ前に向かって生きているのだ。
諦めではなく、いつまでも願いを持ち続けている。結局は同じ結果が来るとしても、気持ち一つで、それこそ世界は変わる。
「こんなに気分がよくなるとは正直思っていませんでした。本当に直るかもしれないと思えるほど気分がいいんです。
だが、そうじゃない事は俺自身が一番わかっています。…もう、俺は長くはないでしょう」
目の前に迫った死。だが、そう考えるよりも、俺はここまで歩いてきたのだと思いたい。
決して上手い生き方をしてきたのではないが、自分で歩き、そして今ここに辿り着いたのだと、そう思いたい。
流され、弄ばれてきた運命ではなく、自分が選んでやってきた道なのだ。
「お二人には感謝しています。この三ヶ月間、俺はそれまでの時間に匹敵するくらい自分なりに一生懸命に生きてきたと思います。そう出来たのは、こんな俺を気にかけてくれた二人のお陰です。こんな面倒な患者なんて迷惑だろうに…。
本当に、ありがとうございます」
素直にそんな言葉が口から出た。
ありきたりの言葉だが、この二人ならわかってくれるだろうとそう思った。今まで俺を見てきた二人なら。
「…ありがとう、そう言うべきなのは、私の方だろう」
柿本医師がそう言い、そして、ゆっくりと頭を下げた。薄くなった頭皮だけではなく、彼自身をとても寂しく感じた。いや、彼自身ではなく、俺がか…。
俺をそんな気持ちにさせるとわかっていても、頭を下げたかったのだろうか。それ以上には何も言わず、ただ、下を向く。
居た堪れない気持ちになる。だが、頭を上げてくれとは言えない。多分、我が儘ばかりでこの医師を苦しめた俺のせいで、俺はこれを受け取るべきなのだ…。
「……もういいだろう、柿本」
いつもより、低い口調で菊地さんがそう言った。その言葉は普段の彼らしからぬもので、その中にやるせない感情が混ざっているように感じた。
「…頭を下げる必要がある者はここにはいないよ。
二人とも、それは必要ないことだ」
俺に視線を合わせ、そして柿本医師を見ながら、菊地さんは静かに言った。
「飯田くん。感謝はありがたく受け取るが、迷惑をかけたというのは納得出来ないよ。僕も彼もそんな風には思っていないのだから」
「…はい」
「君は変わったよ、本当に。それをしたのは、僕達ではないし、他の誰かでもないだろう。君自身だよ。
だから、僕達とする事は、これで充分だ」
にやりといったように菊地さんは笑うと、俺に手を差し出した。
「評判は良くないが、顔は広いからね。君に合ったいい所を必ず探すよ。だから、君はそこで、時を迎えるまで生きるんだよ。これが終わりじゃない、そうだろう?」
同じ事を初めて会った時にも言われたなと思い出す。あの時は喧嘩のようだったが、言われているのは同じことだ。まだ生きているんだと、勝手に終わりにするなと…。
俺の差し出した手は痩せ細ったものだったが、自身でも驚くほど、俺は菊地さんの手をしっかりと握った。心で繰り返すのは、感謝ばかり。
柿本医師とも握手を交わす。次に会うのが最後だろう。その時は、行ってきますと別れを告げなければならない。だから…。
「また来ます」
そう言い、軽く頭を下げた。
「お大事に」
二人の言葉が重なり、俺の中へと落ちてきた。
俺は顔を上げ、そして二人に微笑んだ。
次の日、調子がいいので朝から大学に行き、事務所に退学届を出した足でゼミの教官に挨拶に行った。置き忘れていた専門書を一冊鞄に入れそこを後にしたのは、ちょうど2コマ目が始まった時だった。
試験中のため、まるで誰もいないかのように静まり返った講義棟をゆっくりと歩いていると、早くも試験を退席してきたのだという香川に会った。
彼の髪は黒に戻っていた。就職活動のためなのだろう。久し振りだなと少しやり取りをし、別れる。その際、「またな」という彼の言葉に、俺も軽く手を挙げ同じ言葉を返した。
(また、会えたらいいな…)
単なる戯言に過ぎないのかもしれないが、心の中でそう呟く。思う事は自由だろう。そんな自分自身に少し苦笑し、真夏の太陽が照りつける外へと出た。
振り仰いだ校舎は、綺麗とはいいがたいものだが、目に焼き付けるにはまぶしいくらいの光を受け輝いていた。
夕方に菊地さんから千葉にある病院になら直ぐに入れるとの連絡を貰った。週末に入りたい旨を伝え、明日病院でと電話を切った。
週末に荻原は仕事で九州に出かけるようだ。丁度いい。
何となく荻原が帰ってくるのを待とうかとリビングにいたが、いつの間にか俺は眠りに落ちていた。
気付くと俺はベッドに入って眠っていた。隣には当然のように荻原がいた。
帰ってきてリビングで眠っていた俺を運び込みそのまま沈んだのだろう。上着を脱ぎ緩めたネクタイをつけたままの服装で寝息を立てている。
窓の外は薄暗い。時計を見ると4時前だった。
暫くすれば太陽が顔を出し始めるのだろう。一日の始まりには相応しい、とても静かな朝だった。微かに、鳥が鳴く声まで聞こえる。
今日は昼過ぎに病院に行き二人に会う予定だ。菊地さんに預けている封筒を戻してもらわなくてはならない。それに、新しく田島さん宛に手紙を書かなくては。
後、荻原にも…。
この男には、何も告げずに去ることだけを謝罪するだけでいいのだと、隣で眠る姿を見ながらそう思った。他のことは教える必要はないだろうと。
そう、そうすれば、荻原の中でずっと俺は生きていくのかもしれない。何処かに行っただけだと思われるだけ…。
そんな考えに、ふと小さく笑いを漏らす。
相変わらず俺は、自分も他人もわからない。
だが、人と関わり、少しは近付いたようにも思う。人間と言うものに、この世で生きると言う事に。
そんな俺自身を見つめて気付いたのは、荻原の事を好きだと、大切なのだということ。
先日の事故が起こるよりも、もっと前から、俺の心にはこんな気持ちがあったのかもしれない。惹かれていたのは紛れもない事実。だからこそ、苦しかったり救われたり、苛立ったり安心したり。それまで人に与えられても流してきたものを、捻くれながらだろうが少しずつ受け止めてきたのだ。最低だ、嫌だと荻原を否定しながらも、結局は惹かれていた。
この感情が、愛や恋といったものなのかどうなのかはわからない。
俺はやはり、この男の全てを信じる、なんて事も言えはしない。
だが、信じたいとは願っている。自分の事もわからないのに、荻原の事は何故か信じてみようかと思う。
そう、この男なら大丈夫だと。
荻原には荻原の道がある。そして、それを荻原自身も知っているのだと。俺がいなくなったとしても、道を見失うはずがないのだと。
強い、弱いなんかではなく、人は一人では生きていけない者なのだと実感出来たのは、荻原といたからだろう。実際には俺なんかよりもとても強く、前に向かって生きている姿を目にしたからだ。
そして、そんな強さの中に、弱さを見たから。
だが、その弱さは、この男の優しさだった。脆く崩れる弱さではなく、柔らかい、人としての純粋な部分だった。それは俺にとっては、とても温かなものだった。
綺麗な面ばかりではなく、確かに汚れた面ももっている。俺の知っていることなどほんの一握りのことで、常識では考えられない事も沢山やっているのだろう。そう、俺の頭を撫でる荻原の手は血まみれなのかもしれない。
だから、それを全て受け入れることなど、これからもっと一緒に過ごし荻原に惹かれたとしても、絶対にありえないだろう。俺は荻原本人ではないし、そうなりたいとも思わないのだから。
だが、きっと前のように目を逸らすばかりではなく、きちんと見つめることは出来るだろうと思う。俺には受け入れる事は出来なくとも、それが荻原なのだと認める事は出来ると思う。
血まみれの手でも、俺にとっては気分を落ち着かせてくれる効力を持っているものなのだ。
人は多かれ少なかれ何かの犠牲を持って生きてきている。荻原ばかり汚れているのではない。俺も同じように汚れているのだろう。それに気付くと、自分ばかり正当化するように生きてきた事がおかしくてたまらない。なんと俺は子供だったのだろうか。
自分がどれだけ俺を変えたのか知っているのだろうか、この男は。
荻原にとっては気にかけることではないのだろうが、俺は自分自身のそんな変化に驚くばかり。俺をそう慌てふためかせている事を知っているのだろうか。からかわれ気の無い返事をしつつも、実は鼓動を高鳴らせていたということを知っているのだろうか。
知っていて更に遊ばれているのだと卑屈にとっていたが、本当はそんな事はわかっていなかったのかもしれない。
子供のように無邪気に眠る男の、俺に笑いかける悪戯っ子のような笑みを思い浮かべ、苦笑を落とす。
俺達は、もしかしたら互いに思い違いをしていたのだろうか。俺は荻原にからかわれまいと必死になり、荻原は俺に相手にされないからと必死になった。
互いに相手の内など探らなければ、もっと普通に付き合いだしていたのかもしれない。
いや、それよりも…。
偶然の出会いだったと思う。
何の目的もなく彷徨うように歩いていた俺と、仕事中だったのだろう荻原との出会いは。俺が山下にぶつからなければ、さっさと相手にせず立ち去っていれば、会わなかった。荻原の仕事が長引いていれば、会わなかった。
ただ街で顔を合わせただけの始まりが、ここまでの存在になるなど、夢にも思っていなかった。
荻原がかまいにこなければそれで終わり。なのに、何かと仕掛けに来、俺は乗ってしまった。それ自体、他人を鬱陶しがる俺には珍しく、相手にしたのは一種の奇行だ。
偶然に偶然が重なり、今のようになった。
何か一つでも違えば、そこで関係は終わっていたのかもしれない。
三ヶ月。たった三ヶ月なのだ、出会ってから。一緒にいたのは、もっと少ない。居候のようにここに住み始めてからも、朝から晩まで忙しい荻原と過ごす時間など殆どなかった。
だが、それでも俺の中では、とても色々な事があった三ヶ月。こうして新しい世界に関わったことも、色んなものと顔を合わせた事も、今にして思えばこれほど充実した時間はなかっただろう。決して上手くいっていたとは言えないが、そう思う。
おかしなもので、あれほど苦しかったのに、今は思い出となり、少し心が記憶した痛みを訴える程度のものでしかない。人間とはなんと融通の利くものだ。苦しみよりも、今は馬鹿な自分や、餓鬼のような荻原や、関わった人の事を思い出す。
苦しんでいる時はとても長かったのに、今は一瞬の時のよう。それでいて、荻原と出会ったあの日などは、凄く昔のようにも思う。
気付けば、当たり前になっていた。
荻原が近くにいる事が、こうして傍にいる事が。だから、たった三ヶ月ではなく、もっと前から知っているような、過ごしてきたような、そんな感じがする。
いつか話した、生まれ変わったらどんな人生がいいか、と言う質問で荻原は子供のように沢山の望みを言った。逆に、わからない、そう答えた俺に夢は無いのかと呆れた。
だが、今ならわかる。
俺は生まれ変わっても、また同じ人生を歩みたい。自分は不幸だと捻くれて嘆き、周りの好意に気付かないようなそんな馬鹿な人生。そして、また、荻原に会いたい、そう思う。
幸せで、自分のやりたい事が全て出来る人生に魅力を感じないわけではないが、この男と出会えるのなら、この人生も捨てたものではないのだと今は心から思えるから。だから、もう一度…。人との付き合いも、生き方も不器用でいい。必要なのは、それを気付かせてくれる人物がいるということだろう…?
だから、この人生に俺は後悔していない。
叶うのなら、もう一度同じように、同じ道を歩きたい。
両親の死、最愛の人との別れ。捻くれた俺に、同じように手を差し伸べてくれるのだろうか、荻原は…。
もしそれを口にしたなら、にやりと笑い荻原は頷くだろう。そして、隠し切れない喜びを現す男に、俺は眉を寄せるのかもしれない。
伝えはせずとも、簡単に思い描ける光景。それほどまでに、俺は荻原を見ていたのかと、少し驚く。
では、荻原はもっと俺のことを見ていただろうか。他人は興味を持つ対象ではないと言った男は、それでも俺には関心を示していた。その男は俺の事をどれだけわかっているのだろうか。
自分に惹かれていっている事を、俺よりも早く気付いていたのだろうか…? だとしたら…。
(…それは、悔しいな…)
ふっと笑いを零すと、それが聞こえたかのように、
「…ん…」
「…荻原…?」
寝返りを打った荻原に小さく声をかけたが、起きたわけではないようだ。
しかし、しっくりいかなかったのだろうか。仰向けになった体を直ぐに、意外と長い睫を揺らし、再び体の向きを変える。今度は横向きになり、何故か腕を組み合わせる。枕もなく首を傾けたその寝姿は、立っていれば考え事をしているような頭を捻った格好だ。
これでは、寝ても疲れなど取れないだろうに…。直ぐに首が凝りまた向きを変えるのだろう。それでなくとも、ネクタイをつけたまま、シャツのボタンも外していないのだ。本人も寝苦しいだろう。
だが、今日もまた、忙しくこの街を走り回るのだろうと考えると、安眠とは思えなくとも、きちんと寝ろよと起こす気にはなれない。
乱れた髪が顔にかかっていた。こうしていると本当に幼く見える。初めてそれに気付いた時口にしたら拗ねた事を思い出す。あの時は可愛くなど思えなかったが、本当に子供のようだ。
寝顔を見られるのが、何故か嫌いだ。
一度先に起き、今のように何となく眺めていたら、その気配を感じたのかスッと目を開いた。だが、自分の状況に気付いた途端、焦ったように慌てて起き上がり背を向けた。
真っ赤に顔を染めながら出て行く荻原を不思議に思っていたが、単に照れていただけだった。その普段のとのギャップがおかしくて笑うと、苦手なんだから仕方がない、人間なんだから苦手なものがあって当然だろう、そう居直ったが、やはりまだ顔を赤くしていた。
(…子供だよな、ホント)
いつも俺の方が子供のように扱われていたのに…。それから、色んな荻原の餓鬼くさい所を見つけた。
自分はされるのが嫌いなのに、人の寝顔を見るのは好きだ。そんなところも餓鬼としか言えないというもの。
荻原は何故か、俺を起こすのが嬉しくてたまらないらしい。いや、起こすと言うよりも、その一連の行為が楽しいようだ。眠っている俺が起きだし、自分を確認するというのが。
このまま起きるのもいいが、また機嫌が悪くなられては大変だから、もう一眠りしよう。
週末までにしてしまわなければならないことが沢山あるので、寝ている暇はないのだけれど。だけど、こうして過ごすのもあとわずかだろうから…。それに。
俺は言葉で言うほど、この男に起こされるのが嫌いじゃない。認めたくはないが。
一人の部屋で目覚めるよりも、誰かがいるここで目覚める方が好きだ、安心する。何度か、荻原は俺を起こさずに朝早く出て行った事があった。それは俺に気を使っての事なのだろうが、誰もいない部屋とわかりつつ、その姿を探し続ける自分がいた。
人の考えがわかる荻原も、さすがに俺がそうしていた事など知りもしないだろう。
俺は無邪気と言えるような表情で眠る荻原を見、クスリと小さく笑った。
おかしすぎる。
考える事は、やろうとしている事は全て死への準備なのに、そのことが気にならないほど、心が落ち着いている。
気になるのはただ、荻原を騙してしまうと言うことだけ。
いや、騙すのではない、秘密だ。ちょっとした隠し事なのだ、これは。
悪戯だ、そう考えよう。誤魔化しているだけなのかもしれないが、そう思う方が楽だろう。
苦しむな、そう言ったのは荻原だ。人にかかる迷惑よりも自分が楽になる事を考えてみろ、そう言ったのもこの男だ。
そんなこと、簡単に出来るか。あの時はそう思ったが、今は素直にその言葉を受け入れよう。
こんな時だけ、都合よく…。この男ならそう言って溜息を一つ吐き、それで許してくれないだろうか?
たとえ、憎まれてもいい。笑えないものは冗談にはならない。それは知っているが、これは冗談ではなく、本気でする悪戯だ。最後まで真剣に、荻原に隠し通す。
いなくなった俺を、荻原は怒るのだろうか。
週末に出かける時は笑って見送るから、もう、それで終わりにしよう。探さないでほしい。我が儘ないい加減な奴だとは重々承知しているさ。だけど、これが俺の望だから。
笑って別れられたら最高じゃないか。そう思うだろう?
平気な顔で笑ってやる。そして、帰ってきたら、慌てろよ。
出かける時の俺を思い出し、悔しがれ。
そして、なんて奴なんだよ、そう怒って、笑って、流してくれ…。
この部屋に残る俺の香りも、時と共に薄れていく。それを荻原は受け入れるだろう。
そして、時にはふと思い出し、あの少し耳につく軽い笑いを漏らすのだろうか…?
俺の事を好きだと言った男。
それが友情なのか、冗談のように言う恋なのか、かまわずにはいられない興味なのか。俺にはわからない。
名前で呼べよ。
そう言ったのは恋人同士のそれを意識してか、それとも単なる親しみか。
俺が荻原をどういう意味で好きなのかわからない以上に、人の心など謎でしかない。
だが…。
「…仁一郎」
呟いた名前に俺は笑いをもらす。
そう呼ばれるのを望むのなら、呼んでもいい。それで喜ぶのなら、何度でもその名を呼ぼう。
そう思うが、呟いた名はなんだか少し恥しいような、しっくりいかないもので…。もしかしたら、呼ばれた本人ですらピンとこないのかもしれない。
昇り始めた太陽が、カーテン越しに強い光を落とす。
目を閉じても白い光。
次に目覚める時は男がそれを遮るのだろうか、無邪気な笑顔で。
それとも、俺はコーヒーの香りに先に起こされるだろうか。
横になっているとゆっくりと眠気が襲ってくる。
心地よいそれは、安らぎを与える。
もう一度目を空け、寝息を立てる荻原を見、俺は再び瞼を閉じた。
END
2002/07/19