13

 ピンポーン、ピンポーン――
 先程から休むことなく部屋にはチャイムが鳴り響いている。一種のBGMであるかのように、俺はその雑音にすっかり慣れてしまった。いや、はじめから通り過ぎる音でしかないのかもしれない。
 いい加減諦めて帰ればいいものを、訪問者は自分がいることを主張し続けている。意地になっているのか、仕事だからだろうか。どちらにしても、ご苦労なことだ。
 鳴りはじめてかなりの時間がたった頃、俺はやっとソファから体を起こし玄関に向かった。
 ここに来るのはこの部屋の主の関係者しかいない。普段なら、その本人がいないのだから出る必要は全くないと無視をするところだが、今回は違った。訪問者の目的は俺なのだ、出るまで鳴り続けるのだろう。
 朝ソファに腰をかけてからずっと俺はそこにとどまっていた。大学の講義はあったが、行く気はなく、やらなければならない課題も手をつける気分にはならなかった。部屋の中で何もする気にも考える気にもなれず、ぼんやりしていた。いつの間にか時だけが過ぎ夕方になっていた。
 最近はこうしてぼんやりしているか、何かに追われているかのように動き回っているか、どちらかのような気がする。急に冷めた気分になったり、腹立たしく八つ当たりしたり…。…ふと自分の姿に気付くたび、段々おかしくなっていっているのだと確認する。だが、それを止める術はない。
 夏はもう直ぐそこなのだろう。大きな窓から見える空は、時間の割にはまだかなり明るかった。だが、夕日に染まった赤い雲が、時の動きを教える。段々と赤い色が暗色へと変わっていく。
 残り僅かな時間を無駄に過ごしていると思う反面、これが最善の道のような気もする。このまま時だけが過ぎ去り、何も気付かないまま、このまま終わるのも楽なのかもしれない。何も考えず、ただ雲の動きだけを見て、眠るようにこの世界を俺の中から消せればいいのに…。
 荻原からの電話が鳴ったのはそんな時だった。少し暗くなった室内。俺と同じようにソファの上に転がった携帯電話の画面が淡く光る。その緑色の光が、とても柔らかく無意識のうちに手を伸ばした。
 荻原は俺居場所を訊きマンションにいるのだとわかると、直ぐに人を行かせるから用意しろ、一緒に夕食を取ろう、と俺の返事も訊かず慌しく通話を切った。
 だから今、ここにこうして誰かがやって来ているのだとわかっている。外でチャイムを押す者は、荻原から俺を迎えに行けと言われたから来たのだとわかっている。
 だが、それに従う気は、全くない。
 俺は確認もせず、靴を履くと勢いよく目の前のドアを開けた。
 外には山下が立っていた。見た目は中年オヤジといった奴だが、俺と同じ年らしい。やっと出てきた俺に、彼は不機嫌そうな顔をしながらも「社長のところまでお連れします」と軽く頭を下げた。
 …気に入らない。
 相手も俺のことをそう思っているのだろう。一応丁寧に接しているようにも見えるが、雰囲気でわかる。歳が歳なだけに、自分の感情をコントロールなんてできるはずがなければ、そんな気を使う相手でもないと思っているのだろう。それは俺も同じだ。
「…遠慮する」
 そう言い残し、俺はエレベーターに向かった。
「そういうわけにはいきません」
 中に乗り込むと、山下も乗り込んできてそう言う。
「…煩い。俺は行かない」
「……」
 無言で扉を閉めようとしたので、俺は閉まりかけたところを足で押さえた。ガタンと音を響かせ、障害物に当たったドアは再び開く。敷居の上に立ちドアの部分に凭れ、ボタンに手を掛け立っている山下に視線を向けた。
「俺は行かないのだから、あんたと行動するつもりは無い」
「そうはいきません。乗ってください」
「何故」
「社長のところまでお連れします」
 怒りに満ちた視線を僅かに逸らし、言葉はだけは丁寧にそう言う。
 別にどうでもいいことなのだろうが、その喋り方が気に入らない…。
「…その話し方、やめろよ」
「……」
「あんた、俺のこと嫌いなんだろう。あの時みたいに、汚い関西弁で喋れよ」
「…あの時は失礼しました」
 そんなことは思ってはいないという感情を隠しもせずに、口にだけ謝罪をのせる。
「…そんなことはどうでもいい。その話し方をやめろと言っているんだ」
「…社長の友人に、それは出来ません」
 その言葉に俺は口の端をあげた。
「友人? あいつと俺が? …はっ! 冗談だろ」
「……」
「あんたにとっては、嫌な奴に頭を下げるのも従えるくらいにあいつは凄い奴なんだろうな。だがな、俺にとっては違う。俺にそんな忠義心を見せるなよ、うざったい」
 自分でも何をこんなに荒れているのか、おかしく思うが止められない。役者とまではいかないが、自身でも大袈裟だなと思ってしまうような表情を顔にのせる。さげずむような嫌な笑いを。
「よくあんな奴に従うな。俺から見ればあんた達は異常だ。
 笑って餓鬼のように好き勝手やっている奴だぜ、あいつは。理由はどうあれ、男を連れまわしている奴だぜ。単なる馬鹿か、変態かだ。
 俺を飼っている時点でおかしいのは確実だよな。そうは思わないか?」
 喉を軽く鳴らし、小さく笑う。
 俺としてはこんな言葉を口にする自身に対しての笑いの方が強いが、山下は別の意味で捉えるのだろう。言葉通り、荻原を馬鹿にしているのだと。
「…行きましょう」
 グッと堪えるように眉を顰めて目を瞑り、低い声で山下はそう言った。怒りが湧いているのになおもそれを押さえる彼の姿に、俺の中で爆発が起こった。
「それがムカツクんだよ!!」
 殺気を感じたのか目を開いたがもう遅い。山下は一瞬身を引きかけたが、後ろは壁で動きが鈍る。俺は力一杯彼の頬に拳を叩きつけた。
 山下は衝撃を逃がす空間がなく、勢いがとまらない拳を最後まで受けきる形となった。頭が隅のボタンをいくつか押したせいで、座り込んだ山下の足を扉が挟みまた開く。
 普段なら腹が立ち誰かを殴ることがあったとしても、頭がそれなりに力をセーブする。これ以上は駄目だと判断する。人を殴るなんて日常茶飯事だという奴ならいざ知らず、大抵の者は自分の力を全快で出すことなんて出来ないだろう。
 だが、俺は普通ではなかった。理性が何処かへ飛んでしまった俺は力を全く押さえることが出来なかった。だからこそ、体が弱ってきている俺でも、自分の倍近くの体重がありそうな男を殴り倒すことが出来たのだろう。そして、それをおかしいと思わないほどに俺は興奮していた。
 壁に凭れ座り込んだ山下の腹を蹴り上げると、彼は床に倒れこんだ。その体に腕を伸ばし上体を起こさせ拳を振り払う。微かな呻き声が聞こえた。顔を見ると一瞬視線が合った。その目は怒りに満ちていた。
 なのに、手を出してはこない。そのことに余計に苛立ち、丸い体を蹴り上げる。何度も蹴っているうちに山下の体はエレベーターの外に出た。
「…覚えておけよ。
 俺は、あんたの上でも下でも、ない。…命令も、傅きもするな」
 …それはもう山下にではなく、彼をここに来させた荻原に対しての言葉であるかのようだった。
 乱れた息でそう言い、俺はエレベーターに乗り込んだ。
 1階のボタンを押し、壁に凭れて長い息を吐く。体が少し震えているのはエレベーターの振動のせいでも力を使った後の息切れでもないことに気付いていたが、考えたくはなかった。目を閉じると奈落の底に落ちているかのような錯覚が襲ってきた。だが、今はそれが何処だろうと、闇でもなんでもいいから身を委ねたかった。

 しかし、直ぐに耳につく音を鳴らしエレベーターが到着を教えた。ドアが開いた音に閉じていた瞼を開けようとした時、名前を呼ばれる。
「飯田さん?」
「……」
 エレベーターが止まったのは、ビルの三階だった。ビルに入っている消費者金融会社の事務室フロアーとなっているようだが、俺に言わせればヤクザの溜まり場だ。一応まともな格好をしている者ばかりだが、荻原の部下なのだからまともなわけが無い。
 このビルは一階が喫茶店とその店の駐車場。二階がローン会社で、三階がその事務室。四、五階には警備会社が入っており、六階からは住居になっていた。六、七階は決まった入居者はおらず、荻原の部下の者達が入れ代わりに使っているらしい。もちろん外から見ればワンフロアーに3組ずつの入居者がいて、郵便も届くようになっているのだが。八階には堂本さんが住んでいる。九階は客人用だかなんだか知らないが、荻原の名義だが全く使っていないらしい。そして最上階が今俺が出てきた彼の住居だ。
 なので、このビル全体がヤクザの溜まり場だとも言えるのだ。
 しかし、一階の喫茶店は学生や主婦に人気で一般人が大勢いるし、二階にも多くの者が出入りしている。
 だから忘れがちになってしまうのだが、…ここはやはり普通ではない空間なのだ…。
 前に立つ堂本さんの肩越しに、フロアーにいた強面の数人の男を見、それを再確認する。
 普段はあまり彼らと関わりあうことはなく、俺は荻原の部屋にしか行かないのだが…。世間から見れば、俺はもう彼らと同じ者なのだろう。そして、そのレッテルは剥がす事が出来ないものなのだ…。
「どうかしました?」
「…いえ」
「えっと、山下はどうしました? 会いませんでしたか?」
 迎えに行かせたんですけど、と堂本さんは首を軽く傾げた。
「…会いましたよ」
「荻原のところに送るよう言ったんですが」
「断りました」
 何故? そう彼が口を開いた時、耳に低い音が響いてきた。
「ん?」
 堂本さんが扉を押さえたまま体を捻り、脇にある階段を見上げた。もしかして…。そう思った次の瞬間には、その考えが正しかったことを俺は知る。
「…山下? おい、どうしたんだ?」
 山下が階段を下りきったところで、俺からも彼のその姿が見えた。先程は気付かなかったが、殴ったときに口が切れていたようだ。口元と白いシャツに所々血がついている。その量から唇だけではなく口内にも傷をしていることも覗えた。
 腫れた顔は怒りに満ちていた。俺を見つけると正に突進と言った前かがみの格好で駆けてきた。蹴られた腹が痛みその格好なのか、それとも巨漢で堂本さんの横を通り抜けるために身を小さくしようとしたのかは知らないが、真っ直ぐ俺に飛び掛ってき、高く拳を振り上げた。
「…ふざけやがってっ!!」
 左手が俺のシャツの襟元を掴んだ。…後は振り下ろすだけだ。
 だが、衝撃はやってこなかった。
 山下の振り上げた右腕を、いつの間にやって来たのか樋口が細い腕で押さえ込んでいた。
「離せや、樋口! 俺はこいつを殴らんと気がすまんのや!」
「…お前こそ離せ」
 そう言った樋口は俺よりもまだ小柄であるというのに、掴んでいた山下の手をヒョイッと簡単に捻りあげた。山下は痛みに顔を染め体を捻ったが、俺の襟元を掴む手は離さない。
「いい加減にしろ。二人とも離せ」
 堂本さんの声に山下がハッと後ろを振り返った。どうやら、今まで目に入っていなかったらしい。
「山下、飯田さんから手を離せ」
 その言葉に従はないわけにはいかないのだろう。振り捨てるように力一杯握っていた手を山下は離した。
「…別に殴らせればいい」
「挑発しないで下さいよ」
 堂本さんはその言葉に苦笑した。そして山下の腫れた顔を見、俺に確認をする。
「…山下を殴ったのはあなたですか?」
「えぇ。だから、彼にも殴らせればいいんですよ…」
「いえ。例えそうであってもそれは駄目です。荻原に叱られますよ」
(また、あいつか…)
 樋口に山下の手当てをしろと言いつけ、堂本さんは俺を送っていくとエレベーターに乗り込んだ。
「失礼しましたね。山下は若すぎますからね、血の気が多い。後で注意しておきます」
「……」
「ああ、もう荻原は店に着いているかもしれませんね」
 腕時計を見ながら苦笑する彼に俺は溜息混じりに言った。
「……俺が悪いとは思わないんですか…」
「…そうですね。あなたが正しかったかどうかはわかりませんが、例え理不尽なことを言われようと貶されようと、荻原の大切な方に手を出そうとしたのですからね、山下は。私はその理由より、彼の行動を戒めなければならない立場にいます」
「……」
「…ですが、彼の面倒を見ている者として言わせて頂くのなら。
 山下は馬鹿ですがそれでもかわいい部下なんですよ。なので、憂さ晴らしに殴られるのでしたら止めて頂きたい。
 ま、今回は馬鹿な彼があなたの気に触る何かをしたんでしょうが…」
 違いますか? と目で微笑んできたが、俺は視線を逸らした。
「山下は単純ですからね。荻原のことを崇拝している節がある。そのくせやんちゃで困ります」
「……」
「…きっと彼はあなたに嫉妬しているんですよ。大目に見てやってください」
 嫉妬。彼の感情をそう表現するのなら、俺も彼らに嫉妬しているのかもしれない…。
 地下の駐車場に着き、先にエレベーターを降りる堂本さんの後ろ姿を見ながら、俺はふとそんなことを思った。
 他人を妬ましく思う、醜い心の存在を俺は自分の中に感じた。



「山下を殴ったんだってな」
「……」
「俺の耳は地獄耳なんだ」
「…耳だけじゃなく全身そこに落ちろよ…」
 堂本さんからの情報だろう。そうでなければ…俺に盗聴器でもつけているかだ。
(…この男の場合、それも冗談にならないな…)
 面白そうに笑う男に眉を寄せ、俺はグラスに入ったワインを喉に流し込んだ。
「ま、何があったのかは知らないが、気にするなよ」
 レタスを口に放り込む前に、荻原はそう言った。
 堂本さんは入口まで入ってきたが、荻原には会わずに戻って行った。車の中でも先程のことを報告している様子はなかった。なのにそれでも、彼が俺の目を盗んで荻原に教えたのだろうと思うのは考えすぎなのかどうなのか…。
 どちらにしろ、どう伝わったのかはわからないが目の前の男の耳に入っているのだということで、俺の眉間に皺が寄る。
「…何も無い」
 食欲は全くなく、弄ぶようにスパゲティーをフォークに巻きつけながら俺は答えた。
 小さなレストランだったが人気があるのだろう。席は客で埋め尽くされていた。俺達が座る席は店の奥のスペースにあり、そこは置かれた観葉植物が衝立ての役目を果たしており、他の客からは死角となるような場だった。
 それは俺にとって他人の視線に晒されない、気にしなくてもよいという点では良かったが、荻原と二人で向かい合うとい点では最悪だった。感情が目の前の男にだけ向かう。他に逸らせるものがない…。
 巻きつけていたはずのスパゲティーが、いつの間にか全てフォークの間から滑り落ちていた。代わりに小さく切られたアスパラガスを突き刺し口に運ぶ。苦味が広がり、その一口だけで充分になりフォークを置く。
「確かに、何も無くともあいつの顔は殴りたくなるよな〜。ふてぶてしいよな」
「…顔は、関係ないだろう…」
「そうか? 見た目は大事だぞ。
 俺だったら、どんなに腹が立ってもお前を殴りはしないからな」
「……」
 シャンパンの入ったグラスを軽く持ち上げ、口元を上げて荻原は笑った。それに比例して俺の眉は更に寄る。
「折角の綺麗な顔を殴るだなんて、勿体無い。そんなこと出来るかっていうんだよ」
「…やめてくれ…」
「ん? マジだぞ。俺だけじゃなく、ある程度の美的センスがある奴なら絶対同じことを思うぞ。ホント、山下に殴られなくて良かったな。
 おいおい、照れるなよ」
 テーブルに肘をついた手で顔を覆った俺を見て、荻原はそう軽く笑った。
 照れているとどうやったら見えるのか。男の茶化す言葉を俺は聞き流す。俺は間違っても笑える心境ではない。腹立たしいやら、情けないやら、自分の行動にむかつくやら、色んな思いが心に沸き起こる。
「…理解できない」
「そうか? お前は自分の顔を嫌いというが、それは贅沢だって言うもんだぞ」
「……顔のことじゃない」
「何だよ?」
「あんただよ」
「俺か?」
 顔を上げると、荻原は純粋にわからないといった風に首を傾げていた。だが、その態度すら、馬鹿にされている気分になる。
 荻原が置いたグラスの表面を、スッと一滴の水滴が流れ落ちる。中の琥珀色の液体では気泡が次から次へと生まれ、ゆらりと水面に上がっては弾けていく。
 そんなグラス越しに見える荻原の右手が、トントンと軽くテーブルを叩いていた。それを本人は気付いているのだろうか…。
「何がだよ?」
 口を開かない俺に再度荻原は尋ねる。
「……あんたのところの者は皆、あんたを教祖か何かのように祭り上げている。敬っている。
 だが、実際はふざけた奴じゃないか」
「ああ、それは、同感だな。よくもまあこんな男についてくるもんだよな。俺もそう思う」
 あっさりと同意する荻原に、俺は大きな溜息を落とす。
「馬鹿すぎる。…なのに、彼らはいつでもあんたのことばかりだ」
「そりゃ、魅力的だからね、俺は」
「…魅力はあるんだろうな、あれだけの人間を使えるのだから。
 だが、子供ならそれもわかるが、彼らは大人だ。あんたが信用できる者じゃないって事ぐらいわかるはずだ」
「酷いな」
「実際そうだろう」
「う〜ん、否定は出来ないな」
「俺は絶対理解できない。何故あんたみたいな奴にあそこまで執着できるんだよ…」
 グラスに手を伸ばし、口を湿らす程度に中の液体を飲む。何でも良いと言った俺に、この辛口の白ワインを選んだのは荻原だ。俺には異様だと思える程の甘い物好きだが、その他の味覚はまともで、荻原は美味しい物を良く知っている。あまり食欲がない俺でも、少しは口に運ぶ程度には美味いと思えるものを選ぶ。それは偶然なのか、それとも、気をまわしているのだろうか。
 だが、それすらふざけるなと感じてしまう。素直にありがたいとだけで済ませられない…。
「…どうかしたのか? お前がそんなことを考えるなんて珍しいな。山下か?」
「…関係ない」
「なくはないだろう。何故殴ったんだよ?」
 真っ直ぐと見つめてくる荻原から視線を逸らす。
 行儀が悪い事は承知で、椅子に凭れ、テーブルから下ろした手をぼんやりと眺める。骨が太い男の手と言うよりも、細くなって浮いてしまったかのような骨張った手だ。手首など女性と変わらないほどしかないのかもしれない…。俺は無意識のうちに服の袖を引っ張る。
 ふと気配を感じ顔を上げると、店の者が皿を変えに来ていた。その様子を眺めながらも、意識は別の方に行く。
 指先で自分の手をなぞり、その感触を確かめる。骨の一本一本がわかる…。
 …この手で俺は人を殴ったのだ。こんな手で…。
 喧嘩をするような手ではない。そう、それこそそんなことをして折れてしまっても不思議ではない。そんな手なのだ、俺の手は…。単に細いのではなく、病的にやつれてしまった手。それは手だけではなく、腕や体も全てそうなのだろう。ただ、目に見えるのが手だというだけで、シャツを脱げばみすぼらしい体が拝めるのだろう。
 そんな俺が、人を殴ったのだ。
 その事実が、可笑しい。可笑しすぎる…。
 そして、苦しい――
 今更ながらに、山下を殴った手に痺れが走った。
「……腹が立っていて突っかかった…。だが、彼はのらなかった。でも、感情はわかる。…隠さず見せ付けてきたからな」
 新たな皿に向かう荻原の手元を見ながら俺は口を開いた。白身の魚の上に乗った鮮やかな色の野菜が、少し禍々しく思えてしまう。
「単純なんだよ、あいつは」
 器用にフォークの背を使いそれらを口に運びながら、荻原はそう言った。それは山下という人間を表す尤も大きな面で間違ってはいないのだろう。
 そう、単純で馬鹿な奴だ。だが…。
「…あんたのことを詰ったから、彼は怒ったんだ」
「何て言ったんだ?」
「…別に。男を飼っているいい加減な奴だって…」
「…それって…お前、俺に飼われているってことか?」
 言葉とは裏腹に、にやりと嬉しそうに笑う。
「…周りから見ればそうだろう…」
 俺にも全くそんな気はないのだが、何故かそんな風に口にする。
「そうか? それは気にしすぎだ。
 ま、何にイラついているのかは知らないが、山下を殴ったことなんて気にするな。あんなんでよけりゃ、また殴ってやれよ。ただし、殴られるなよ」
 あっさりとそう言ってこの会話を終わらせようとした荻原に、俺の中で先程と同じように爆発が起こり、一気に怒りが湧き起こった。気分に任せ山下を殴ったのは俺自身なのに、怒りはそれを平然と言う目の前の男に向かってしまう。
 今までも喧嘩の一つや二つはしてきたので、殴ったり殴られたりの経験はある。だが、あれはそんな喧嘩と呼べるものではなかった。一方的な暴力だ。対等といいながらも、俺は結局は彼の上に立っているのだ。そう、それをわかっていながら腕を振り上げた…。
 そんな俺にこの男を罵る資格はない。そうわかっているが、感情は言うことを聞かない。
「…簡単に言うなよ……」
「ん?」
「…俺は、あんたじゃない」
 山下を殴ったことへの後悔は無いと思う。あの時はああするしかなかったのだ。
 だが、あんな行動をとってしまったということに恐怖が湧いてきた。どうすることも出来ないその思いが俺の中で暴れ狂う。少しでも感情を静めたくて荻原に突っかかる。…これでは山下にしたことと何も変わらないというのに…。
「また、殴れだと…? …それをしてなんになる。何も変わりはしない…」
「……」
「俺はあんたみたいに人を傷つけて、自分の気を晴らすなんてことは出来ない。あんたみたいに人を陥れて笑ってなんかいられない」
 矛盾している。それこそ、きれい事だ。俺は実際に感情に任せて殴ったのだ。彼が殴り返せないと知っていて…。だから、山下が掴みかかってきた時に抵抗しなかったのだ。
(…彼に殴られることによって、その前の自分の行動が正当化されるとでも思っていたのか、俺は。…そんなことは、絶対にないのに…)
 懺悔でも対等にするためでもなく、自分のことだけを考え、彼に腕を振り上げさせようとしたのだ。
 そこまでわかっているのに、止められない。相手が黙っていることをいいことに、俺の口からは止まることなく男への非難が出る。
「そんな奴に俺の気持ちがわかるはずがない、軽々しく言うな。
 誰かを殴らなければ気が収まらなかった。だが、気が晴れるどころか殴ったら余計に気分は最悪になる。…自分が何をしたいのかわからない。…訳もなく暴れる感情を押さえる方法なんて知らない……。
 あんたは、そんな気分になったことは無いんだろうな。人を自分の意のままに操って、そんな奴らを馬鹿だといつも笑っているんだろう」
 堂本さんは、山下のことを可愛いと言っていた。大きな感情は表さなかったのは荻原のことがあったからだろう。だが、それでも口にした、気晴らしに人を殴るのはやめろという言葉に、彼の思いが詰まっていた。
 なのに、その上にいるこの男は簡単に部下を俺に差し出すのだ。自分の持ち物であるかのようにまた殴ればいいと…。例え本人は冗談のつもりだったとしても、それが通ることは無い。命令は絶対な世界ではそれは存在しない。それをわかっていて言ったのだ、この男は…。
「俺は、…強くは無い。理屈じゃどうにも出来ない感情に負ける時もある。…だがそれは、弱さなんて言葉で正当化はできないが、人間だからこそのものだろう…?
 だが、あんたは違う。強いなんてものじゃない。あんたは異常だよ。自分中心に世界が回っていると思っている。餓鬼の戯言じゃなく、実際その力を持っている。そして、それをなんとも思っていない。そうだろう?」
「……」
「だから、人を簡単に切り捨てるんだよな。邪魔になったり興味が無くなったりしたら、さっさと消し去るんだろう。他人を物みたいに思っているんだろう。違うかよ」
 突っかかってくるなよと流せばいいのに、荻原は俺の問いに、少しの沈黙後真面目に答えた。真っ直ぐと俺を見て。
「…否定はしない。だが、多かれ少なかれ人間は皆そうだろう。自分の損得で付き合う相手を選んでいる。何も俺だけに言えることじゃない」
 その顔は、普段のふざけた笑みをのせてはいずに、真剣な表情ととれるものだった。
 …そう、俺だってそうだ。そんなことはわかっている。荻原の言った事は正しいかどうかは別にして、それが現実だ。だが、今はそんな正論なんて俺の耳には入らない…。聞きたくない…。
「…多かれ少なかれ? はっ。それであんたの行動を正当化しようっていうのか?  あんたが人と同じなはずが無いだろう。力を持った奴と持っていない奴とを同じ物差しで測るなよ。
 普通は人を殺す力を持っているからって、実際に殺すことはしない。だが、あんたはそれを平気でやる奴だ。それを当たり前だと思っている。
 だが、俺は違う。あんたのその異常さが俺をどれだけ苦しめているのか気付いてなんかいないんだろう!」
 いつの間にか声を荒げていた。何事かと店の者が近付いてきたが、荻原が片手を上げて制すと、直ぐに立ち去る。
 そんな彼の行動全てを、今は腹立たしく感じてしまう。
 落ちる沈黙も雰囲気も、ここにこうして座っている事も…。全てが俺に苛立ちを与える。
「…そうか、それは知らなかったな。俺は何かお前にしたか?」
 沈黙の後そう言った荻原に、俺は落ち着くように深く息を吐き、口を開く。感情に流されてはいけない。考えて言葉を紡げ。そうわかっているのに、上手くはいかない…。
「…あんたの全てが気に食わない…。
 その余裕の態度が腹立たしい。…自分は間違っていないと強気なところが嫌になる。
 ……何かしたかって? …そんなところがムカツクんだよ。
 あんたが当たり前なことでも、俺にとっては違うんだ。自分の価値観を見せ付けるな」
「例えば、何をした?」
 俺の剣幕を余所に、荻原は落ち着いた声で訊きなおす。
「……俺はあんたに関わりあいたくなかった。なのに、無理やり俺を連れまわしたのはあんただろう。俺の性格につけ込んで逃げられないようにしたんだろう」
「確かにそうかもな」
 シャンパンを一口飲み、荻原は頷きながらそう言う。
 俺の態度にも問題はあった。そう自分自身でもわかっているのに、荻原はあっさりと俺の言葉を認める。それが、悔しくてたまらない…。余裕があるのを見せ付けられる。子供のように一人で暴れているだけの俺を思い知らされる…。
「…暇つぶしの道具にしたいのなら、その本性を見せるな…。あんたなら隠して付き合うことも可能なはずだ。仕事だとか何とか正当化するような屁理屈言って、やっていることはヤクザ家業じゃないか…。怯えて俺が逃げだすことも出来ないようにしようと思ったのか。態々連れて行って人を痛めつけるのを俺に見せ付けたのはそのためなんだろう…?
 自分は力を持っているんだと教え込むにはうってつけだったよな。暴力を受けて抵抗できない相手に拳銃向けて笑う奴を見て縛られない方がおかしい。自分に力が無いとわかっている俺なら、逃げ出せないと諦めると思ったんだろう。
 効果は充分だったな。良かったな、暇つぶしの道具が見つかって。馬鹿な学生をいたぶるのは面白いだろう…。
 …俺を潰し終わったら、また新しい玩具でも探すんだろう…? …なら、さっさと壊して捨てろ…。…もう、真っ平だ……」
 どうしてこんな言葉が口から出てくるのか、自分自身でも不思議だった。ただ、本当に疲れていた。そう、荻原への憤りだけではないのだ。もう、終わりにしたい。そうすれば楽になれるのかもしれない…。そんな思いに俺は駆られているのだ。それが、目の前の身近な人物に向かっただけに過ぎない…。
 こんな自分は最低だとわかっている。荻原を詰る権利はおろか、何も望む事すら出来る者ではないのだ。自分だけが痛いのが悔しいからと人を傷つける。自己中心的で傲慢なのは荻原でも他の者でもなく、俺なのだ。俺自身なのだ…。
(わかっている…。わかっているのに……止められない)
 苦しいのだ。何もかもが。


「…相手を殺さなければ自分が殺られる。
 なら、自分が助かりたかったら相手を殺るしかない、と俺は思う。お前はどうだ?」
 何を考えているのか、荻原はふとそんな話を始めた。いつものように少し笑いを浮かべた顔で、いつものように俺を見る。
「……。…そんな戦争みたいな中で生きているわけじゃない」
 俺の答えに荻原は軽く笑った。
「いや、この世の中はどこも戦場だ」
「……」
「真の安らぎは、何かの犠牲の上でしか成り立たないんだからな。
 お前なら、相手を殺したくも無いし、自分が殺されたくも無いってか? だがな、二人とも生きられる方法をさがす余裕なんて絶対にない。時はいつでも動いているんだ。
 そんな余裕があるのなら、「相手を殺さなきゃ自分が死ぬ」だなんて状況にはなっていないだろう。
 最終選択なんだよ。…お前ならどうする?」
「……」
 そんなことはわからない。わかるわけがない。その状況にもよるだろう。だが…。最後の最後で自分のことしか見えなくなった時俺はどっちを選ぶのだろうか。答えはすでに俺の中にあるはずだ。気付いていないだけで俺はすでに、相手を殺し苦しみの日々を生きるのか、逃げ出し楽な方法を選ぶのか、その一方の答えを持っているのだろう…。
「マサキ、お前の言うことはわかる。だがな、人は皆それぞれの中で生きているんだろう。お前も、俺も、他の奴らも違う境遇に生まれ違う価値観をもって同じこの世界に生きている。答えを出せないのがお前だとしたら、どちらかの答えをあっさりと出せるのもそいつという人間だろう。それを否定なんか出来ないんじゃないか?
 人を殺してでも生きるという奴を詰れるか? 自分を殺して他人を生かすという奴を誉められるか? どちらも簡単には出来ないだろう。それは当たり前だ。一人一人が一人一人の答えを持っているんだからな」
「……何が言いたい」
「お前には言い訳と取られるだろうが、俺にも言い分はある。
 俺はお前に自分を押し付けようとしたつもりは無い。だが、重荷になっていたのなら本当に悪かったと思う。俺はただ、お前に知って欲しかったんだよ、俺がどんな奴なのかを。
 …その点で言えば、受け入れて欲しいと願っていたんだろうな、俺は…。押し付けようとしているととられても仕方がないな。だが、脅そうだの玩具だのと考えたことはない」
 その言葉に「…どうだかな」と俺が言うと、荻原は苦笑を返した。
「どう言ったらお前に信じて貰えるんだろうな」
「…さあな…」
 そう、これをしたなら信じるというものなどない。あるはずがない。
 人を信じるなど、理屈ではない。条件もない。信じてみよう。そう思うのに必要なのは己の心のみなのだから。
「お前は他人をわからないと言うよな。違う生きものなんだから当たり前だ。
 だが、人は相手の性格や環境などでそれを量ろうとする。こいつならこうすればこうなるのだとある程度のことは読めるようにもなるだろう。だから、俺は感情なんてとても単純なものなんだと思っている。お前はそれが難しいんだろうがな」
「…単純…?」
「そう、俺は他人の感情が良くわかるんだ。それを特別だとは思っていないが、力だとは思っているから利用している。
 相手の感情がわかれば自分がどう動けばいいのかがわかるだろう。俺の場合はそれが当たり前であって何も思わないが、中々便利なものであることは確かだな」
「……人を使うのが上手いと言う事か…?」
「ま、そうだな。いいようには聞こえないが。
 意識したのは小学校に上がった頃だ。学年が上がるにつれ、ヤクザの子供だということが他人に恐怖を与えるのだと気付きだした。避けられているというか、に怯えられている。いや、一種の見世物というのかな、そんな感じになった頃があった。
 始めは気にもしていなかった。嫌なら近付かなければいいさとな。時たま自分の勇気を試すかのようにちょっかいを出してくる奴がいたが放っておいた。そのうち教師も遠巻きに眺めるようになってうざったくなった。
 ヤクザの餓鬼なんて、確かに相手にしたくは無いよな。そのことを俺は気付いていたからこそ、何もしなかった。だが、それじゃ面白くないんだよな。俺も餓鬼だったから同じように遊びたいと思ったんだよ。堂本も俺に真面目な顔で「友達を作りなさい。仲良くするんですよ」とまるで世間知らずの母親のようなことを言ってくるし」
 その時のことを思い出したのか、クククと荻原は喉を鳴らす。
 少し今の荻原を見ていると意外な感じがしたが、確かに彼の家庭の境遇ならばそう言うことになっても全く可笑しくはないのだろう。
 荻原の過去が俺のそれと少しだけ重なる。
 今はリストラだのなんだので、中高年の親の自殺は珍しいとは言えなくなっているが、昔は奇異の視線で見られるものだった。元々の俺の性格に重ねて、両親揃っての自殺は決して世間に受け入れられるものではなかった。だから、学校と言う狭い社会でさえも周りから避けられるというのは同じように経験したことがある。それは自分で納得しながらも、気にせずに入られないものだった。
 だが、俺と荻原は同じではない。
 彼らと同じように自らも一線を引いた俺とは違い、荻原はその線を取ったのだ。それはとても大きな違いだ…。
「だから、俺はまず興味本位で見ていた奴らをついたんだ。相手も餓鬼だから自分達と全く変わらないものだと安心すると心を許す。一人がそうなると連鎖反応のように他の奴らもそうなる。
 元々俺もこんな性格だから溶け込むのに時間は要らない。更に相手のことがわかるから、そいつらの興味を引くのも簡単だ。すぐにクラスの中心になったよ。それからもそんなわけで中学、高校も周りに友達は沢山いた」
 荻原はそこで言葉を切り、空いたグラスに自らシャンパンを注ぐ。弾ける泡を楽しむように軽くグラスを回した後に口をつけ、中身を喉に流し込んだ。そして…。
「だが、俺の場合はどんなことをしても友達止まりだ。それ以上はない」
 ゆっくりとした動きでテーブルにグラスを戻しながらそう言った。
「それ以上…?」
「そう。俺は他人が何を考えるのかわかりすぎるから、そいつらにあまり魅力を感じないんだ。相手は自分のことを良くわかってくれると思っているんだろうが、俺はそれを感じると引いてしまう。それ以上こっちに来ないよう、牽制球を投げたりしてな」
 肩を竦め、口の端を上げて笑う姿は、声とは裏腹に何故か少し淋しさを感じるものだった。
「お前は他人に怯え、それでいて求めている。俺はわかりすぎて人を必要と出来ない。
 …お前の言うように、利用ばかりの関係だな、俺の周りは…」
「……あんたから見たら、俺も単純な奴で、…そのうち一人なんだな」
 荻原に自分がそんな風に思われているという事に驚いた。人を求めているように見えるのか、俺は…。自分でも気付かないそれ。だが、…当たっているのかもしれない。荻原の言う通りなのかも知れない…。
 そして、それに気付いていないのは自分だけだと…? …正しく、子供のようだ…。
 自嘲気味に笑いながら言った俺に、荻原は首を振る。
「いや、そうじゃない。
 だからな、俺は考えがわかる奴の中でもお互いを納得して付き合っていける者や、想像した以上のことをしでかす者には、必要以上に執着してしまうんだ。楽しくて仕方がないんだよ」
「……」
「だから、お前は他の奴らとは違う」
「…何故そう言える。今は珍しいのかもしれないが、そのうち飽きるだろう」
「そうかもしれないな。だが、当分は飽きないぞ。
 何て言ったって、俺にこうして当り散らす奴はあまりいないからな」
 両方の口角を上げニコリと笑う姿は、無邪気な子供のように見える。…性質が悪い。
 その笑顔と言葉は、気に入ったというストレートな言葉よりも俺には効果があるのか、ドキリとした。
 当分は飽きない。…当分とはどのくらいのことなのだろうか。そんな思いがふと頭を掠める。…最期まで、俺を傍に置いてくれるのだろうか、と。
 おかしくなっているのはわかっている。だから、俺は荻原とこう向き合うのが怖いのかもしれない。…追い出されるのが、今の状況を変えるのが怖いのだ。自分を保つ支えになっているのは、何だかんだと言っても結局はこの男のお陰何だと気付いているから…。
「人目を気にするくせに、こんなところで怒鳴り散らして注目を集めている。自分のことは棚に上げ、俺に価値観を押し付けようとする…」
「…価値観じゃない。一般論だ。俺はあんたと違い普通だ」
「『普通』という奴なんてこの世の中には存在しないぜ。誰が『普通』を決めているんだよ。おかしな奴が増えてそれが当たり前になったら俺も普通になるのか。っで、お前が異常?」
「……」
「冗談だ。ちょっとからかえば直ぐに怒るが、怒っていない振りをしてそっぽを向く。突然八つ当たりするようにキレたかと思えば、黙り込む。何を考えているのだろうかと思えば、何も考えていそうに無い。顔を裏切って性格は地味だが、頑固なところは見たままだ。他人に慣れないから一歩距離をおこうとするくせに、流されることが多々ある。結構天然だよな、お前」
「…煩い」
 先程とは違う理由で、テーブルに肘をつき、顔を手で覆う。目を閉じると何故か涙が溢れそうになった。言われている言葉よりも、その向こうにある荻原と言う人間に胸が詰まる。
 八つ当たりして喚く俺など放っておけばいいのに…。なのに、先程までの雰囲気を忘れさせるかのように、ふざけたように笑う。
 …大きすぎる。人として自分とは比べ物にもならないくらい荻原は大きすぎるのだ。
 人を茶化したように扱うのでそれに気付くことは少ないが、ふと、人間としての大きさの違いを見せ付けられる。普段は俺とさほど変わらない者なのに…。年齢の差だけではない、存在そのものの違いというのだろうか…。自分の小ささを感じずに入られない…。
「酒を飲ませれば加減が出来ず、寝るまで飲む。しっかりしている様で呆けている」
「…何が、言いたいんだ…」
「いや。だから面白いんだって。気に入ってるんだよ、お前のこと」
「…聞き飽きた」
「嫌そうに言うなよ。傷つくぞ」
「勝手についていろ…」
 俺の言葉に小さく笑う荻原の声が耳に響く。
 悪態を吐く事しか出来ない俺を、お前はそんな奴だよとわかって受け入れているかのように、楽しげに、優しく笑う…。
 他人を惹きつけさすのは簡単だと言った。なら、俺もその毒牙にかかっているのかもしれない。単純な俺の思考を見て計算し付き合っていこうとしているのかもしれない。やはり荻原にとって、俺は他の者たちと代わらないのかもしれない。
 だが、それでもいいと思う。何が真実かはわからないが、今のままでいいのだと思う自分がここにいる。



 後で知ったことだが、この日は荻原の誕生日だったらしい。本人は言わなかったのだが、顔を合わすたび気さくに話し掛けてくる井原からそのことを教えられた。
「山下を殴ったそうですね。ほら、えっと…社長の誕生日に。
 社長喜んでたでしょう。俺も聞いた時スカッとしましたよ。あいつ、粋がり過ぎて馬鹿やっていますからね。社長はさっさと切りたいようですが、堂本さんが面倒見るってことで何とかなっているんですよ、山下は。
 飯田さんもあんまり相手にしない方が良いですよ」
 楽しそうに笑いながらそう言う彼の後ろに、樋口の姿を見つけたと思った次の瞬間、井原は頭を押さえて足元に蹲っていた。
「飯田さん。山下もそうですが、こいつの言うことも話半分に聞いた方が良いです。本人はいたって真剣で悪気はないのですが、超が付くほどの馬鹿なので」
 何だとこらぁ、と怒る井原に樋口は「…五月蝿い」の一言を投げ捨てた。
 気を使ってくれたのか、それとも単にいつものやり取りなのだろうか。
 だが、いつの間にかこの二人に慣れた自分がいる。
 俺も少しは変わっているのだろうか…?
 今も時は流れている…。そう、流れているのだ。
 止まることは、ない。
 終わりが来る時までは――

2002/05/16